サヨコさん


 サヨコさんは事務所のお掃除にやってくる人のいいおばさんです。
 彼女には電力会社で働く旦那さんと、大学に行ったきり帰ってこない息子さんと、今年お受験のお嬢さんが居ます。事務所のタカモトさんと話しているのを聞いた限りの、一番新しい彼女の情報ですけれども。
 サヨコさんは綺麗好きで、三ヶ月に一回、誰も居ない事務所の床をワックスでピカピカにします。まだ入社間もないサノさんのスリッパが机の下にあろうが、タカモトさんがお得意先にもっていく菓子折りを床に並べていようが、サヨコさんは問答無用でワックスを引き伸ばします。
 床の埃が小さな塊になって、こびりついても「ワックスをかけたこと」には代わりが無いからサヨコさんは満足して帰ります。
 ああ。本当はワックス掛けの話をしたいんじゃないんです。
 僕がサヨコさんについて話したいのは、もっと別のこと。そうですね。今ではスッカリ事務所のベテラン職員になっているタカモトさんでも知らないような昔の、先代所長との間のロマンス、なんてのも良いのかもしれません。
 その時にはサヨコさんも結婚していたので、世間様が言う昼メロな世界だったんでしょうね。
 まだ若くて、可愛かった(けど子持ちだった)サヨコさんが、今ではおばちゃんになって、事務所の人たちとニコニコ世間話なんかしながら、でも本当はちっとも楽しくないのに笑顔を浮べている様とか。
 時々掃除をしていてもサヨコさんの口元がきゅっと結んである日には、何かがあったんだろうだとか。
 鈍感で、人並み以下の僕でも、それなりに察することは出来ます。悲しいかな、察するだけで、ちっとも力になれないのが現実です。
 あ、どうして僕がサヨコさんに肩入れしているのか説明していませんでしたね。
 それよりも、所長とのロマンスの方ですか?止めておきましょうよ。積もった灰をかき回しても、火がつくわけではないんです。どうしようも無い、終わった話じゃないですか。
 じゃあ、何を話したいんですって?
 ああ。それを忘れていました。そうですね。やっぱり始めは、どうして僕がサヨコさんに肩入れしてしまったのか、それからにしましょう。

 まず、僕の身の上を話しましょう。
 僕の身体の上には天井があります。……ごめんなさい。素直に話します。これでも緊張しているんです。だって、引かれたら嫌じゃないですか?
 ええっと、勘の良い方は察していただけたかもしれませんが、僕は人間ではありません。
 ましてやサヨコさんや他の方々に手入れされるような、特別な待遇を受ける人外の物でもありません。
 僕の直ぐ下にはスチール製の床がありまして、硬く冷たいスチールの階層構造の上に僕は固定されています。ぶっちゃけ、棚の上の段って事なんですけれども。
 直ぐ下の段にはテレビが在ります。
 テレビの下にはビデオがあって、ビデオの下のは沢山のカセットが今では埃を被って真っ白なお化粧をされているかのように並んでいます。
 年末の大掃除の時に埃を落とされるだけで、後は放ったらかしの寂しい存在です。
 要するに、僕と同類なんですけれどもね。
 僕には真っ黒な二つの目があるので、事務所の中が良く見渡せます。
 タカモトさんが居眠りしてたり、サノさんが携帯から自殺系サイトを覗いている姿も、よーくみえます。
 大丈夫、皆さん真面目に仕事してませんから。同類ですから。そこまで気に病むことは無いですよ、と話してあげたいんですけれども、僕の身の上だとそれは難しそうです。
 さて、僕には愛らしさなんて物はありません。
 サノさんの携帯にくっついているクマの人形みたいな、可愛さが無いんです。今度生まれ変わったら、ああいう愛される存在になりたいと切実に願っています。
 だって、まん丸の黒い目。血のように赤い皮膚。今時オバチャンでさえ使わないような朱色に染まった唇に、ヒゲ。そして胴体に申し訳程度にくっついた手足。
 とても不気味でしょう? きっと海外の方が見られたら、ホラー映画のクリーチャーに使ってしまうんじゃないかと思うんです。
 眉毛も太いですし。手入れしたいんですけど、手が届かないんです。
 僕の、というよりは僕と同じ姿をした仲間達をそろえて皆様はこうおっしゃいます。「ダルマ」と。

 ずっとずっと昔。まだサヨコさんじゃない掃除のオバサンが出入りしていたとき、僕は旅行土産に社員さんから連れてこられました。
 その社員さんが事務所の所長さんになって、他の街の行った後も、僕の存在を忘れられたのか、事務所に同化してしまったのか、今日までこの場所に座り続けています。
 サヨコさんが始めて事務所に来たときのこと、残念ながら僕は覚えていません。
 その頃の僕は人生というか世の中を斜めに構えていて、外から入ってくる刺激を遮断していたんです。
 ただ、ある時、僕の体が棚から転がり落ちました。
 それをサヨコさんが拾って戻してくれました。人の手に触れるのは何年ぶりだったのか僕自身覚えていません。けれども、サヨコさんの指の感触、それは今でも忘れられません。
 まあ、それ以降、誰も僕に触ってくれなかったからなんですけれども。
 サヨコさんが棚の奥に僕の体を押し込んでしまったから、悲しいかな誰も僕の存在に気付いてくれなくなりました。
 人に触ってもらいたいのかと聞かれれば、答えは「ノー」です。
 可愛がられたいのかと聞かれても同じ、注目を浴びたいのかとの答えにも同じ。
 僕は、単にちょっとだけ埃のつまったココから、もっと広いところに行きたいんです。
 ほら、よく若い人が言うじゃないですか。生きるのが窮屈だって。若い人だけじゃない? ああ、そうですか。そういうご時世なんですか。僕たちだって窮屈ですよ。
 お互い様です。だから僕も我慢してます。他の方々もきっと我慢してるんでしょうね。
 サヨコさんも我慢してるんです。
 だってサヨコさんはワックスを掛けながら唄うんです。
 それは、もうお上手です。まだ子供さん達が小さいときなんかは、遊びに行きたくて堪らなかったみたいです。
 今では公民館のカルチャースクールに通っていて、なんだかんだで遊ぶ時間を確保しているみたいなんですけれども。
 あと、サヨコさんはカレンダーを見るのが大好きです。
 無言になって、カレンダーを見つめるとき。その時はとても空気が張り詰めていて、動くことが出来ない僕でも物音を立てないように気をつけてしまいます。
 ニコニコ世間話をしているときが、一番サヨコさんの気は張り詰めています。最近は特に緊張した空気が強くなっていて、まるで時間に追われている事務所の皆さんのよう。
 あ、仕事してないなんていってますけど、やる時はやってるみたいですよ。僕は部外者だから、よく分らないんですけれどもね。
 それに住まわせてもらっているんで、一応株は上げておかないと。
 サヨコさんの話に戻しましょう。
 ワックスを掛けるとき、サヨコさんの携帯には引っ切り無しに電話が掛かります。
 サヨコさんは携帯電話を頻繁に変えます。
 サヨコさんの家族は旦那さんと、県外に行った息子さんと、今年受験のお嬢さん。
 けれど、サヨコさんが電話越しに話しかける「まーくん」や「ゆうちゃん」は、二人のお子さんの名前じゃありません。
 子供じゃないのにサヨコさんは「お母さん頑張ってるから」と、答えています。
 僕の中で、サヨコさんに対する疑問や推測は、沢山の形になりました。
 それを彼女に聞くことはできません。ぼくはダルマでしかありませんから。
 ――サヨコさん、もしかして……。
 その先に続く僕の思い込みを、彼女に否定してもらえる事を祈っていました。


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