目的を忘れて、昼メロしか映さなくなった事務所のテレビが、活躍した日はそうそうありません。
その日はギラギラと太陽が照りつける暑い日でした。
「今年は去年より暑い、温暖化の所為だ」と、タカモトさんがぼやいてクーラーの風が当たるように動きます。サヨコさんは頷きながら受付棚を水拭きしています。
相変わらず、ドロドロしたストーリーが売りのお昼ドラマを事務所にいる社員さん達が見て、代わり映えのしない泥沼展開に冷やかしを入れながら皆さんが楽しんでいたとき。
画面の上部に工場火災の情報が流れました。
薬品工場での火災は、住宅街に燃え広がり、大惨事となっているようです。
渇いた風に炎が煽られて、もくもくと煙が上がって、まだお昼なのにテレビ画面の向こうは真っ暗でした。
タカモトさんが「息子さんの住んでいる地域じゃ……」と、サヨコさんに尋ねるのを僕は聞き逃しませんでした。
サヨコさんの顔は真っ青で、口元が震えています。
震えて、カサカサの唇が「まーくん、ゆうちゃん」と動くのも、僕の開いたままの目は読み取りました。
あの後、サヨコさんは息子さんからの連絡を待ち、結局連絡が取れないので家に帰って、それから事務所に木曜日の掃除にこれない事を連絡してきました。
息子さんがどうなったのかまでは分りませんでした。
暫く、掃除に来れないらしい事は事務所の人々の会話で判断しました。
テレビでは被害の状況を伝える番組が放送され、原因を特集した番組が急遽放送されています。
火災と、薬品の混じった煙によるガス。その両方で被害が拡大したようです。
被害者の名前(病院に搬送された人の名前は伏せてあります)が読み上げられ、その数の多さ、夏休み期間中で子供が含まれていた事などが、事務所の皆さんには衝撃だったようです。
アナウンサーの抑揚を抑えた声で、聞き覚えのある苗字と、二人の子供の名前が読み上げられました。
「正仁君」と「勇斗君」。それから二人のお父さんの懐かしい名前。
その名前がサヨコさんに繋がってしまって、僕は深く溜息付きました。いいえ、本当は溜息なんて出ません。
けれども、もし無機物の身で出せるなら、僕は出してしまいたいです。出して、気持ちを抑えることが出来るなら、そうしてしまいたいんです。
その人の名前を聞くのは久しぶりでした。
事務所の生き字引のオバチャン社員さんは、思い出したのかはっとなった表情を浮べています。
翌日、以前この事務所の所長さんだった方が事故でなくなられた事が伝えられました。
その当時に縁のあった社員さんなんて数人しか居なくて、どんな人柄だったのか他の社員さんに説明しようと記憶を手繰り寄せているようでした。
真面目だった、とか。
几帳面だった、とか。
本当はそれよりもサヨコさんとの出来事を話題にしてしまったほうが、手っ取り早いんでしょうけれども。それは、僕しか知らない出来事なんです。
ああ、あの後サヨコさんは仕事に復帰してきました。
火曜日と木曜日の掃除に出ています。
聞いた話によると、息子さんは無事ではなかったようですが、命は助かったようです。
「まーくん」や「ゆうちゃん」がどうなったのかは、知りようがありません。
ただ、サヨコさんがワックスを掛けているとき、携帯はとても静かだということです。
時々電話があっても、それは受験前のお嬢さんだったり、他の人だったり、サヨコさんは普通に応対しています。
何の変わりも無く、ごく普通に。平和に。穏やかに。にこやかに。
もう、「まーくん」や「ゆうちゃん」から電話が掛かってくることは無いんでしょう。
サヨコさん。僕はもし動けるなら貴女の所に転がって行きたいんです。
そうは出来ないんですけれども。
それに、仮に動けたとしても、僕に何が出来るんでしょう。
ああ、でもなぜだか伝えたいような気がします。
何かを。何か、どんな形でもいい。せめて後一度だけでも、貴女と接触できたなら……。
僕の願いは年末に叶えられました。
大掃除のとき、僕はサヨコさんに見つけてもらいました。
サヨコさんに見つかって、そのままゴミ箱にポイっと捨てられて。「外で燃やしてきます」なんて言葉が聞こえて……。
窮屈な場所から抜けるなんて、あっという間だったんですね。
サヨコさんは僕の背中に書いてる名前。今では居なくなってしまった人の物を見つけて、驚いた表情をしました。
けれど、パチパチと火のはぜるドラム缶の中に僕を放り投げてしまいました。
サヨコさん、貴女は忘れてしまうんですね。
「まーくん」も「ゆうちゃん」も、僕をココに連れてきた人も。
炎が僕の体を覆います。じりじりと表面の塗装が焼けていって、僕は焦がれてしまった黒い目でサヨコさんを精一杯見つめました。
これが最後なんです。サヨコさんを見る、最後の機会なんです。こんな距離で、サヨコさんにダルマとして認識してもらった僅かな時間。
だから精一杯、僕はサヨコさんを記憶に留めるようにします。
僕の体が灰になって、記憶に焼き付けることさえ無駄かもしれないけれども。でも、僕は消えてしまう寸前までも。サヨコさん……。
突然、サヨコさんは炎の中に手を突っ込みました。
そして僕の体を掴んだら、地面にたたきつけて、やけどした自分の手を構わずに僕を握り締めます。
熱いですよ。触ったら、やけどしてしまいますよ?
そう気遣う心を見せたらよかったのでしょうが、僕は無責任にも炭になる危機を回避できた喜びもありました。
サヨコさんの嗚咽が聞こえます。
涙だった良かったのですが、涎や鼻水も混じっていました。それが僕の頭に掛かります。
汚い、というよりも、初めて見たサヨコさんの涙に僕は驚いていました。
人間は綺麗には泣けないんですが、ファンデーションやマスカラの混じった涙が綺麗に見えました。熱くて、ヒリヒリに焼けた僕の体に涙が伝います。
泣いてあげていいんですよ。口に出せなかったら、言葉に出来なかったら泣いて出してしまって良いんですよ。大丈夫です、僕しか見ていません。そう伝えたかったのですが、サヨコさんは分かってくれたでしょうか?
まるで吐き出すかのように、搾り出した鳴き声は、アスファルトに吸い込まれていきます。
僕はほっとしました。灰にならずに済んだので。
僕はダルマです。ただのダルマです。
何も出来ません。けれど残してもらえました。
ああ、どうしてでしょう。とてもほっとしているんです。
窮屈だった気持ちも消えて、サヨコさんに伝えたかったことも消えて。
なんだか、とてもスッキリした心なんです。
ごめんなさい、サヨコさん。僕は、もう――…。
あ、拾って下さって、有難うございますの方が良いでしょうか?
とにかくも、ここいらで「さようなら」なんでしょう。なんとなく、そんな気がします。
ああ。サヨコさんのロマンスを語りそびれましたね。機会はなさそうですので、皆様のご想像にお任せいたします。
きっと、そのほうが素敵ですよ。
では。サヨコさん、皆さん。さようなら。
終わり