チョコとスポンジと泡だて器と

 お菓子の本は山ほどあるが、汚れきった古いその冊子を開くのが一番だと彼女は思った。
 カバーはどこかに行って所々シミのある汚い料理本。取り扱っているのはケーキばかり。
 チョコレートでコーティングされた甘いケーキの名前はザッハトルテと言うらしい。
 凝ったものではない。名前を借りたなんちゃってココア生地のケーキでしかない。それでも彼女には十分なのだ。
 埃をかぶったケーキ型を洗い、これまた棚の奥にしまったままだった泡だて器を発掘する。長年使われてたことがなかった、それらの道具は一部サビついたものもある。
 今回使用する道具が酸化を免れていたのは幸運だったのだろう。
 そういえば、と。彼女はオーブンの台も埃だらけだったことを思い出す。
 無駄に機能があったオーブンレンジは、いつの間にか冷凍食品を解凍するだけしか使わなくなっていた。
 ボウルに卵白を落としてメレンゲを作る。その退屈な作業はくるくると思考を巡らせるのに丁度良かった。

「バレンタイン、誰にチョコあげる?」
「えー、恥ずかしいよ」
「みんなに義理チョコに決まってるじゃん」
 そんな会話の果てに、女友達同士でお菓子を作って回そうと話が決まったまでは良かった。
 けれども追加されたのが、誰か一人には本命チョコを渡すことなんてルールだ。
 特に好きな人がいるわけでもないのに本命チョコなんて指定されても困ると思いながらバレンタイン前日までナアナアで流してしまった。
 きっと明日にはみんな義理チョコを持ち合って、その一方で本命チョコも用意して「せーの」で散り散りに渡しに行くのだろう。
 そういう友達同士の遊びは嫌いじゃない。ただバレンタインが困るだけなのだ。
(好きな人が居ないのって、やっぱり変だよね)
 分かっていてもピンとこない。
 人を好きなるなんて、まだまだ彼女には遠い世界の出来事のようにしか思えないのだから。
 強いて近い距離にある恋愛ごとなんて……そこで彼女の手は止まってしまう。メレンゲが丁度良くなるまであと少し。
 いつも作ってもらったケーキを食べるだけだったから分からない。ケーキ作りが面倒で退屈なんて知りもしなかったことだ。
「おいしいから、また作ってよ」  そう言ってお願いをすれば、ケーキを食べさせてもらえる。彼女はそれが当たり前だった時期に思いをはせる。まだ毎日が長くて、家の中で冒険ができた頃の記憶。
 自分にケーキを作ってくれた人は、沢山の荷物を残したまま、もう居ない。
 どこか彼女の知らない所でケーキを作っているのかもしれない。
 お菓子作りが趣味だったから、きっと別の誰かに美味しいと言ってもらえてるのかもしれない。

 スポンジ作りが終わって、湯銭で溶かしたチョコで回りを塗りたくる。
 あんずジャムが無かったからイチゴジャムを代用したが、本物のザッハトルテを食べたこともないからきっと味の違いなんてわからないだろう。
 くるみをのせて、表面が乾いたら出来上がりだ。
 ケーキ作りの空いた時間でクッキーも作っておく。余ったココアを使い、チョコチップを足して、これで義理チョコも用意できた。
 義理チョコは女友達に渡せばいい、本命はどうしたものか。
 彼女はケーキ作りで汚れた洗い場を掃除しながら、ふと心の中に湧いてくる疑問の答えが見つけられなかった。

 いつもケーキを作ってくれた人は、本当は誰かにチョコを作りたかったのだろう、と。
 今回のケーキ作りのレシピが書いてある本。
 ボロボロのそれには、たくさんの汚れがあった。
 ぞんざいに扱われたのではなく、その逆である証のような、ページにチェックを入れるための折り目、蛍光ペンのマーク、お菓子作りの時についた汚れ。
 なんども開いて、この本から自分も口にしたケーキを焼いてくれたのだろう。
 ケーキ作りが面倒なのは、今回嫌というほど分かった。
 けれども、たぶん、また作るかもしれない。そんなことを彼女は心の隅で思う。

 バレンタイン当日、友達同士の義理チョコの渡し合いが済んで、それぞれが本命チョコを渡すために戦いに出ていく。
「私は学校には渡す人いないから」
 そんな理由で彼女たちの戦いを見送って、そして放課後には結果を教えてくる子もいたし、いつの間にか帰ってしまった友達もいた。
 時間がたてば友達内の噂話でどうなったか知ることもできるだろう。
「これから渡しに行くの? ファイト!」
 そんな友達の言葉に苦笑しつつ、帰り道を別れる。

「今日、バレンタインだから」
 いつも夜遅く帰ってくる父親を待って、食卓に作ったケーキを置く。
 疲れ切った様子の父親はしばらく頭を悩ませて、「ああ義理チョコか」と呟く。
「食べてよ」
「ああ、疲れたから明日じゃ……少しでいいか? 全部は無理だ」
 途中で言葉を変えた父親に彼女はため息をついた。自分の娘に気を使ってどうするのだろう、と。
「チョコレートの味しかしない」
「一応、スポンジはココア。間にイチゴジャム塗った」
「甘いとしか分からない」
 予想した答えが出て、彼女は苦笑する。
「ケーキ作るんだな」
「うん。作ってみた」
 少しスプーンで削ったザッハトルテを父親はさらに切り込もうとする。無理をしているのは彼女にも分かった。

「我慢して食べなくていいから」
「いいんだ。全部は食べないけど、それなりには食べたいんだよ」
 無理やり口にケーキを詰め込む父親を見て、彼女はどう声をかけるべきか悩んだ。ずっと避けてきたことに触れていいのだろうか。
 けれど行動を起こしてしまったのだから、父親だって気付いたかもしれない。
「明日も遅い?」
「ああ」
「当分も、そんな感じ?」
「今までと同じだよ」
 当分はスーパーの総菜と冷凍食品生活が続くなと彼女は晩御飯を想像する。
「この前、お母さんに会ってきた」
「そうか」
 父親は変わらずにケーキを切り崩している。
「弟ができてた」
「そうか」
 スプーンを握った手が止まって、父親はうつむいたまま食卓に座っている。
「別に私は気にしてないから、話を進めていいと思うよ」
「いや、そういうわけにはいかないだろう」
「お父さんの人生なんだからさ。いいじゃない」
「まだ、乗り気になれないんだ」
「今日、チョコもらったんでしょ、食べてあげなよ」
 彼女には本命チョコを渡す気持ちがまだ分からない。義理チョコしか、まだ渡せない。けれども受け取る方はどんな気持ちになるのだろう。
 喜んでもいいと思うのに、きっと目の前の父親はチョコをどうするべきか一晩悩むだろう。それが長年家族をしてきたから分かる。
「食べていいんだよ。んで、ホワイトデーにお返しするの。それって全然、普通だから」
 もう父親はケーキに手を付けていなかった。うつむいた顔で、目のあたりを押さえている。
「話、進めていいから。私のことは気にしないでいいから」
 もっと上手な言葉をかけられたらいいのにと、彼女は自分の至らなさが歯がゆかった。
 どう伝えればいいのだろう。
 心の有り様を責めなくてもいいのに、と。知ったような顔で言うわけにもいかない。自分は娘で、父親の世界を知らないのだから。
 義理チョコしか渡せない、まだ子供でしかないのだ。
「お母さんは好きで出て行ったし、私はお母さんと好きで会ってる。だからお父さんも好きにしていいと思う」
 自分の言葉が不発だったことを彼女は父親の苦笑で感じた。
(好きな人がいるくせに。本当は上手くいくかもしれないのに)
 母親のことがあって恋愛に臆病だった父親にようやく運が巡ってきたのは、最近になって分かった事だ。それが良い流れになるだろうと、これまでの父親を思い起こすと考えられる。
 彼女はため息をついた。
 まだまだ自分では相応しく重みのある言葉を使えないのだとろう、だから父親は二の足を踏めずにいるのだろうと。
「思いのほか、固いんだな」
 父親はどうにか皿に取った分を一気に残りを頬張り、必死に甘いものと格闘し終わって水を流し込む。
「美味しかった。これなら他のチョコレートも大丈夫だ」
 そしてホワイトデーには何を返したらいいのだろうと続けたのだった。


おしまい