月を眺めつつ晩酌という趣味はない。
ただ電気がつかないから月明かりを便りにするしかなく、暖房も動いてくれないからアルコールで体を温めるしかないからだ。
音はといえばアパートの直ぐ側を通っている車道のアスファルトを車が滑っていく類のものばかり。
つい先刻までは飲み帰りだろう数人の笑い声も聞こえてきたが時計の針は、そろそろ遠慮しろ警告する範囲に差し掛かっていた。
窓からはパチンコのネオンと月だけが光、家々の明かりはぽつぽつと灯っている程度だ。
半月が雲に隠れて部屋の中がいっそう暗くなる。
暖房のないなか着込んだコートは昔付き合っていた彼女が選んでくれたものだった。
その子とは違うけれども、本当なら今ごろはいっしょに寒さを分け合ってくれる相手だっている筈だった。
しかし現実は真っ暗な部屋に一人きり。
諦めろと月が最後通告を告げているのだろうか。
だから半月なのだろう、あれは死神の鎌なのだ。
命なんて取られやしないだろうが、それに近い痛みなら感じている。
来年には卒業が目前だ、けれども就職の当てなんかなかった。
バブル並の求人率なんて世間では言っているけれど、それは大都市の話で、地方の大学でダラダラと学生を続けていた自分にとっては無理な話だった。
現実は選んだ大学の時点で就職先なんて決まっているようなものだろう、他の国よりは競争心に乏しくて、それでいて就職を前にすると突然学歴が物言わぬ壁となって立ちふさがる日本独特の風潮かは知らない。
いや、名前だけじゃないのが現実だけどね。
いい学校に行った奴とそうでない奴はやっぱり違う。
未来を描けなかった奴と、未来を見つけた奴は違う。
現実を見れなかった人間は今ごろになって現実を知るのだ。
月なんぞ眺める趣味なんてなかった。ただ相手してくれるのが月しかなかったんだ。
地元に戻るというあいまいな俺の話に彼女は「そう」と軽く受け流してくれた。
未来像なんて考えてないのは明白で、そこが見切りラインだったのだろう。
そういえばダラダラとした毎日の中で、俺を奮起してくれるような言葉をかけてくれていたような気がする。
今ごろ気づく鈍感だから愛想つかされたんだろう。
俺の実家と彼女の実家は飛行機か新幹線から地方の列車に乗り換えて、バスでたどり着くような、それぐらい離れていた。
連距離恋愛なんてベッタリした関係まで構築できなかったのは、俺の中の怠けた部分が原因なんだろう。
大学生活のちょっとした時間を共有できた。それが心地よかった。
なんでもないことからお互いの面白い部分を見つけて、それがとても性に合っていたのだ。
恋愛の定義なんて、俺には手をつけられない領域で、だからこの部屋に来てくれるかもしれなかった人との関係を恋人同士なんて分類に入れてしまっていいのかわからない。
一緒にいると本当に気が楽だったが、相手も同じだったか、それは本人の問題で……それでも俺の本心は楽しいと感じてくれたならなんて、一見するとセンチメンタル気持ちを装った言い訳だ。
恋愛じゃなかったのかもしれない。
それこそ、今まで付き合ってきた女の子とも、そのときの会話のノリでいっしょにデートしたりエッチしたり、部屋に遊びに行ったり、向こうが来たり、一緒の講義受ける時に遠くの席かメール送ったり。
で、なんだか知らないうちに、だんだんと合わなくなって疎遠になって、合コンに誘うメルトモに残るか、音信不通になるか。
そんな感じだから恋愛未満だったのは明らかだ。
かといって彼女との関係も果たしてそうだったんだろうか。
友情という形もあるのかもしれない。
ただ時々、その場の空気とか、俺の考えとか、彼女の考えとか、そういったものが、合っていたり、違っていたり。
それだけで気楽さを感じたのは事実だ。
三年になっても内定を取れてない俺が地元で就職先を探すと言ったとき、彼女との恋人のようで友人のようで私生活に干渉したりする関係は終わった。
自然消滅のように少しずつ距離が広がっていって、そして俺は今誰もいない部屋で半月を見上げている。
外からの光で部屋の中は、迷わない程度に明かりがあった。パチンコ家のネオンも明かり代わりになる。
今ごろになって思う。
彼女といっしょにいるのは心地よかったのだと。
今までの女の子と同じようでいて、ちょっとだけ違った。
そこかどこかまだわからない。
一生かかってわからないかもしれないが、それはそれで面白いのかもしれない。
恋愛経験を美化するのは男の悪い癖だろうが、別にいいじゃないか。
恋愛なんて99%は思い込みなんだから、自己陶酔だったなんてオチがあろうがなかろうが、俺が怠け者で、愛想つかされた事実は変わらない。
学生時代に恋人ができても、ずっと一緒にいるわけじゃない。
ましてやそれから続くなんて稀だ。
そして、今の時期になるともう誰もが将来を考えているの当然だ。
続けるか、分かれるか。イベントまで一人ものでいるのが気まずいから卒業まで外面用に付き合って、そして卒業と同時に分かれる。
メルトモなんて形で残ることもあるし、音信不通もあるだろう。
今、何もない部屋で思うのは、遠慮もなくドアをノックしてくる彼女が懐かしいということだけだ。
何もないからどうすることもできない。
部屋を片付けたのは一人暮らしをはじめる後輩に、何だかんだと売り飛ばしたからだ。
何を買われていったかも頓着しなかった。で、結果が何もない部屋となっている。
電気代を振り込み忘れたからエアコンは動かない。テレビも持っていかれた。
衣服もテキトーに持っていかれた。
布団と毛布とコタツまで持っていかれたと知ったのは、夜になって寒さを一層を感じてからだ。
布団と毛布は取り返しに行かなくては行けないだろう。そう思いつつも、体が動かない。
部屋の中の本棚もなくなり、ダンボールの中に本が突っ込まれている。CDも随分減っている。
炊飯ジャーや鍋といったものは安全だった。
衣服も多少持ってかれたが根こそぎではない。
衣・食・住の最低限レベルは守ってくれたようだ。
その程度の人間の心がハイエナと化した後輩共に残っていたこと自体奇跡かもしれない。
電気がとめられたのは誤算だった。
どうしたものかと悩んだけれども、考えることすら億劫だ。
寝るのに不十分しないよう着込もう。それから電気代をどうするか考えよう。
困ったら友人に相談しよう。
俺の寂しい現状に月は半月のままニヤリとほくそえんでいる様だ。
プルルと携帯の着信がなる。
充電切れを知らせる無常な警告音と、真っ黒になるディスプレイ。
もしかしたら救いの手が差し伸べされる機会だったのかもしれない。
けれど今夜は自分には届かない。
もはや携帯は手元にフィットするくせに何の役にも立たない電子機械と化したのだから。
しばらくするとドンドンと玄関の扉が叩かれる。
「生きてるかー! 電気止まったから、入れろ」
横柄な言葉は俺の知っている中で一番、心をかき鳴らす声だった。
迷うことなく部屋の扉を空け、招き入れる。
しかし訪問者の反応たるやつれないものだった。
「なんだ、アンタも止められてたの」
久々に見る懐かしい人は部屋の現状に不満そうだった。
事情をたずねるつもりもないのか、ほかの家に避難しようと踵を返す。
とっさに手をつかんで、そして何を話せばいいのか言葉が浮かばずに沈黙が流れる。
「さっきアンタに電話したので携帯の充電が切れた」
「どこかのファミレスで充電とかできるかな」
「いや、それは昔の話。今はコンセント隠してるから無理」
お互いに連絡手段を失ったという現状、そして所持金を合わせたところでネットカフェで一晩過ごすにも無理があった。
ファミレス一晩を過ごした豪傑の体験なんて嘘くさい話に縋ろうにも、それはお互いの金を合わせた上で、ドリンク飲み放題すら不可能な額だった。
銀行だって止まっている。コンビニでの引出しは……残念ながら田舎では24時間営業ではない上に、まだ導入されていない。
「どっか知り合いのところに押しかけよう。アンタの友達の誰だったけ、結構広い部屋借りてる奴いたじゃん。そいつん所とかさ」
そんな彼女の提案に乗れなかったのはどうしてだろう。
玄関でたたずんだままの彼女を部屋の中に引っ張って、有無も言わせず畳に座らせる。まだあけてなかったビール缶を差し出した。
「私、カクテルがいい。それか焼酎」
「飲み会をしよう」
提案に彼女は困ったような顔を浮かべた。
男より成熟しているであろう女性が見せる、大人の顔ではなかった。
けれどもどこか子供に対して向けるまなざしに近いような気がする。
差し出したビール缶を手にとって、そのまま畳に置き、焼酎の瓶へと手を伸ばす。
ガスは止められていなかったから沸かした麦茶で割ろう。
そうしたら少しは温まるかもしれない。
お互いの部屋をダラダラと行き来してたころとは違った飲み会だった。
月を眺めることも、暖房がないから布団や毛布の取り合いになったり、ペットボトルで即席の湯たんぽを作ったりなんて、今までやったことのないものだった。
確かにこの調子なら、ダラダラと一晩を過ごして、けれど恋愛的な営みはものはないだろう。
ただ彼女が部屋に来てくれた。
それが嬉しかった。冷たい部屋があったかくなったような気がする。
まだ縁が切れてなかったんだと、それにほっとする自分がいるのも事実。
窓からのぞいた月は、一人きりで見上げたときと印象が変わっているようだった。
死神の鎌だったり、あざ笑っているかのような欠けた月は、今ではまるで茶化したような笑みを浮かべているようだ。
こんな半月なら、見上げてみるのいいのかもしれない。
今しかない月なのだから。
半月なんて気をかければ何度でも見ることができる。
けれど今夜の月は一回限りなのだ。
感謝をこめて、心の中で今日だけの月に呟いた。「ありがとう」と。
月は何もしてないけれども、すぐそばにいる人間には口に出す勇気がない。だから今は月が変わりだ。
今夜はありがとう。
半月でよかったのかわからないけれども、空に月が輝いていてよかった。
だから、ありがとう。
数刻たって、寒さに耐え切れなくなった俺たちは結局知人の家に押しかけることになった。
シンシンと寒さが骨にまで染みてくる夜道を、お互いに文句を言いながら歩く。
そんな状況も悪くないと思った……のは知人の家に着くまでだ。
俺の家から強奪されたコタツで鍋を囲む後輩たちの姿、そして「今のカレシね」と紹介された友人。
それら現実に、俺はただ汁だけになった鍋に白米を投入し、雑炊を作るという作業に逃げることにした。
やっぱりあの半月はニタニタ笑った悪魔の口だったんだなと、そう痛感した冬の日の話だ。
おしまい。