トンネル時間

 ガタンガタン……。
 何もしないで置くには退屈な時間を、少年はもてあましていた。くすんだ茶色の髪と、前髪の隙間から覗く黒い眼。上等は言いがたい上着は、ガリガリに痩せた少年には大きすぎた。小さな体を包む衣服はしみが点在し、所々ほつれたままである。
 スリや無賃乗車の子供達と同じに思われたのか、車両を回る所掌の目が少しだけ険しくなるものの、切符を確認すると視線は穏やかなものに変わった。
「間もなく、列車はトンネルに入ります。窓側のお客様はお手数をおかけ致しますが、窓をお閉めになってください」
 それだけを言うと、車掌は次の車両に移動して行った。
トンネルに入った途端、あっという間に暗くなり、騒がしい声が沸きあがる。それも明かりがつくまでだったが、不気味な黄色の裸電球は薄暗く車両を照らした。
 少年は退屈しのぎを車窓の景色から車両内に変え、キョロキョロと目を動かす。
(トンネルの中は別世界って、じーちゃんが言ってたな。)
 そんな事を思い出しながら、前方の席の恋人達へと興味の対象を向けていた時――。
「すまないが、この席は空いているかね?」
 上品そうな声が少年の背後から掛かった。
 振り返った先には、三等客室に似合わない身なりの紳士がたたずんでいる。
「空いているかね?」
「え、ああ。空いてますよ」
 少年の言葉に紳士は安堵したような表情浮べ、向井の座席に座った。
(……う。)
 明らかに少年とは身分の違う紳士を前にして、緊張感が襲ってくる。
 何も変な床はないかと、埃を払ったり、少年なりに身なりを整えてみる。そんな事をしてもボロボロの服は立派な上着に変わってくれないし、体の匂いが消えるわけでもなかった。
「一人旅かい?」
「ええ、まあ。そんなところです」
 少しだけ座席をずらしながら答える。
「旦那はお一人で旅を?」
「いいや、連れと一緒なのだがね。彼女が怒って座席から追い出されたんだよ。身一つ出てきたから持ち物も無い。――いや、あるといえば、この時計かな。」
そう言って紳士は胸ポケットから、古ぼけた懐中時計を取り出した。
「何の値打ちも無い代物だがね」
 紳士の掌に納まる懐中時計は、濁った黄色をしており、そこかしこに傷が走っていた。それに時計の針が止まったままだ。
「壊れてますね」
「そう、壊れているんだよ。本当はもうひとつ扉があって、中に写真を入れるのだが、空かないのだ」
 紳士は残念そうな顔をして、中に入っている写真が母親のものである事を告げた。
「子供の頃離れて暮らしていた所為か、この年になっても母親の写真を持っているのさ」
 おどけた口調の紳士に釣られて、口元の筋肉が緩む。
 少年もまた紳士と同じように母親の写真を持っていた。遠くの街に出稼ぎに行ったきり戻ってこない母親の……。
「俺も母親の写真持ってるんです。旦那と同じです」
 紳士のように写真を取り出そうと思ったが、やめておいた。
 母親の写真が余りにも古くて。ポケットに突っ込んだ手を引っ込める。
「いけない。田舎に忘れてきましたよ」
 口を突いて出た嘘に紳士が笑う。そそっかしい慌て者とでも思ってくれれば幸いだった。案の定、紳士の言葉はその通りのものだった。
「慌て者だな。私はこの時計を忘れると、どうも上手くいかなくてね。気付いたら、肌身離さず持っているのさ。おかげで母親に見られているみたいで、悪いことが出来ない」
 紳士の関心は話にあり、少年の事情には興味が無いのだろう。それが幸いだ。それに少年にだって分かる気がする。
 店先のパンを盗もうと企むと、ポケットが重たくなる感覚だ。共通した物を持った同士というのが少年の緊張感をやっと和らげた。
「俺もわかりますよ。何だか、悪いことが出来ないんですよ」
 そう言うと、えらく紳士は嬉しそうに笑う。つられて少年も愛想笑いを浮かべた

「それでは君は母親を探しに?」
「ええ、住所も変わってしまって、連絡の仕様がないですから」
 少年の旅の目的は母親を探すことだった。別に音信不通になったわけでもなく、毎年仕送りは届いていたから、母親との絆は繋がっていた。
 ただ住所が変わった所為で、連絡が取り辛くなっただけだ。
「親父も婆ちゃんも、止めとけって煩いんですけどね」
 少年の言葉に紳士は黙り込む。静かに聞いてきた彼は、深刻そうな顔になり重たく口を開いた。
「君はどうして母親に戻ってきて欲しいのかい?」
「もう十分だからですよ。俺も学校を卒業して働けるようになりました。母ちゃんが都会で働かなくても、田舎で暮らしていけるんです」
「本当に?」
「ええ。」
 紳士の目を見ずに少年は答えた。正直、自分の答えがそれだけでないことは自覚していた。少年が街を目指すのは確かめるためだ。
(母ちゃんはそんなんじゃない……)
 出稼ぎに行って帰らない母親を、からかいの種にする輩がよく言うのだ。
 ――お前の母親は都会に行ったきり、戻らないつもりだ、と。
「君の母上が出稼ぎに行って、どれくらいだ?」
「……五年です。」
 少年が搾り出すように答えた。
(普通よりちょっと長いだけだ。5年なんてあっという間だったじゃないか)
 そう自分自身に言い聞かせる。
「随分と長いね。その間に戻ってきたことは?」
 少年は首を横に振った。
(母ちゃんは一度も戻ってこなかった。でも、それは)
「仕事が忙しかったんですよ。手紙にだってそう書いてあるし」
 心の中を不安を抑えきれず、弁解めいた言葉が溢れてくる。膝の上に乗せた手は、少し汗ばんでいた。
「多いらしいな。出稼ぎ先で妻が新しい男を見つけるという話は」
 紳士の言葉に少年の顔が強張った。
 ――お前の母親は戻ってこない。どうせとっくに……。
 頭の中で意地の悪い誰かの声が聞こえた。からかう輩と少年自身の不安とが交じり合った空想の声。けれどその続きは紳士によって現実の音となってしまったのだ。
 少年は心の底で恐れていた事を、口に出されて動揺した。
「始めは段々家に帰る回数が減っていく。仕事が忙しくなった、と。それから手紙のカズもまちまちになり、やがて住まいを移動し、仕送りも無くなって、家族が確認しに向った頃には、もう……」
「止めてください!」
 少年は大声で紳士の言葉を閉ざした。
「ただ母親に会いに行く。それだけです」
 もうそれ以上聞いて痛くなかった。無理に会話を終わらせてしまいたかったのだ。
 苦し紛れの言い訳は、確かに言い訳でしかなかったのだが、少年の動機でもあった。彼が母親に会いに行くための。
「その母親が家族を捨てているかもしれないのか?」
 何も言わず少年は首を縦に振る。その目には迷いも不安も大きな影となって残されている。
 噂話が現実に近づいた気がして、少年は怖くて堪らなかった。
 ……母親に会いたい。
 少年が旅を決意したのは、この思いを抑えきれなくなったからだった。連絡が取れないからとか、不要な噂が立てられるからとか、たくさんの理由があったが、一番は母親の顔を見たかったからだ。
「母ちゃんが俺の母親を辞めるとか、そんなの俺分かりません。俺はただ会いたいだけです」
 母親に。
 少年がそう答えた時だった。
 トンネルを抜ける大きな音が聞こえ、車両が大きく揺れる。
 ゴオオと暗い空間を抜ける音が列車の中を駆け抜け、真っ暗だった世界に一気に日の光が差し込んだ。
 驚いた少年は先程まで座っていた紳士が居ないことに気付く。
「あれ?」
 少年の前に居るのは眠りこけた老婆。上品そうな紳士ではない。
(どう云うことだろう?)
 不思議がる少年の耳に車掌の声が届く。
「間もなく次の駅に到着致します。次の駅は――」
(ヤベ!急いで降りないと……。)
 慌てて荷物を取り出す少年の頭からは、先程の紳士とのやり取りなど消えていた。ただトンネルに入る前よりも、気分がすっきりしたような気がした……。



「――全く、面白いことがあるものだ」
 紳士は車両を歩きながら、掌の懐中時計を覗き込む。
「トンネルの中は別世界か……。」
 そう口にし、懐中時計の蓋を開けて、中の板を少しだけずらす。中から二人の人物が映った写真がほんの僅かだけ顔を見せた。
「壊れてるって嘘ついて正解だったよ。……まさか本人に見せる訳にはいかないからな。」
 少しだけ文字盤を移動させると、隠されていた人物の顔が明らかになった。
 くすんだ茶色の髪に、黒い目の少年。面差しの似た女性と共に映るのは、紛れもなく先程の少年だった。
「まさか昔の自分に遭うなんて」
紳士は感慨深そうな表情になった。
 突然思い出から切り取られて、自分の前に現れた過去の姿。本当は面白いなど言えるほど甘やかなものでは無い。ただ強かになっただけだ。そう取り繕えるほどに。
 ある客室の前で立ち止まると、彼は咳払いをして、ゆっくりとノックした。
「いい加減入れてくれませんか。あなたに追い出されて幻まで見たんですよ」
 気だるそうな女性の声が彼の入室を許可する。
 ほっと溜息をついた。
 こんな所、中の彼女は知りもしないだろう。ましてや彼がさっきまで三等客室に居たなんて。
「ありがとうございます。お怒りは解けましたか?」
 どうやって先程の事を話そうか……そんな事を思いながら、彼は客室のドアを開けた。
 間もなくして客室から甘ったるい響きを持った紳士の声と、若い女性の笑い声が漏れた。

終わり