「すまないが道を教えてくれないか?」
 私はコーヒーを運んできたウェイトレスに地図を指差し、目的地までのバスの乗り方などを聞く。
 そうだ。私はこれを返しに来たのだ。彼の妻と、生まれているであろう子供に。

 ウェイトレスから教えられた通り、バスに乗って、公園沿いの住宅地へと向う。
 かつての部下、私以外の第3小隊の連中たちの墓参りを計画したとき、家族にも会って置こうと決めたのだ。
 彼等の埋葬に立ち会うことも無く、慰霊祭にも参加することが出来なかった身としては、こうやって戦争が終わった後から、遺族の元を尋ねる以外に方法が無かった。
 私の決断に精神科医は良い顔をせず、神父は曖昧な笑顔を浮かべ、ジェシーは何も言わなかった。
 それが遺族の傷を抉り、彼等の悲しみを土足で踏みにじる行為であると分かっている。私は彼等の塞がりかけた傷口を広げに来るのだから。
 だが私にとっては、必要だったのだ。
 彼らという部下を持ちえたこと彼等が異国の地で灰になってしまったこと、私だけが 生き残ったこと。それが神の御業であったとしても、彼が治めるのは死後の領域だ。現世ではない。
 まだ先の残された私には、自力でこの不条理と付き合わなければならなかった。
 私の訪問に遺族達は様々な反応を見せた。
 私を歓迎するもの怒りをぶつけるもの、どれも少数派だ。本当に多かったのは、すべてが過去となり、彼等を『忘れたい出来事』として認識している人々。
 遺族への保証金も支払われ、論理のみが問題化した今となっては、あの戦争は過去の汚点となった。後には平和を取り戻した日常に放り込まれ、喪失を抱えた人間たちが残るのみなのだ。
 遺族達はささやかな日常を守るために、新たな人生を踏み出した後であり、旅立ちに不要な多くのものを捨て去った後であった。
 引っ越しして住人の変わった家、あるいは新たな家人を迎え入れた後の家チャイムの向こうに、部下達との接点を見つけるのは困難だった。
 それでも私は遺族のもとを訪ね続けた。そして私の旅もついに一人の部下の遺族を残すのみとなった。
『故郷の小さな町に、妻が居るんです。実は子供も居るんですよ。お腹の中にですけど』
 そう云った彼の遺族は、果たして残っているのだろうか。彼の家族達は、彼の存在を過去の物にしてしまっていないだろうか?
 あの角を過ぎた先、三件目の家が彼と彼の遺族達の住居だ。
 私の頭に白と茶色の男の姿がちらついた。

彼が私の下に配属されてきたのは、戦争も末期に差し掛かった頃だった。軍役のものならば誰でも良いと言う様に、各地から手当たり次第に集められた若者達はろくな訓練も受けずに、前線へと送り出されていた。
 彼もまた、その一人だ。
『君は無線兵なのか?』
 その小柄な体格を怪しみ、私は彼に聞いた。善良そうな顔が、満面の笑みを浮べて私の言葉に頷いた。
 白い毛並みに浮かぶ茶色の斑が印象的だった。

 私は男の住居だった場所の前で呆然と立ち尽くしていた。
(一体、どういうことなんだ)
 目の前の光景が信じられず、まるで私だけが時間から切り離されたような感覚に陥る。
 小さな一軒家は無人のまま放置され、荒れるに任せてあった。玄関や窓には外側から板が打ち付けられ、目を引く『売り出し中』のビラがあちこちに貼り付けられている。
 この家の住人がいないことは明らかだ。私の頭の中の彼の笑顔が、霞んで消えた。
 彼の遺族は思い出と共に住処を捨てたのだろうか、それとも……。
「この家の人達なら遠くの町に引っ越して行ったよ」
 私は近所の老婆から事情を知った。
 遺族は彼を捨て、新たな家人を迎えて遠くの町に行ったのだと云う。
 戦争で家族をなくした人間に、世間は優しくなく、思い出を抱いて生きていけるほど、容易くは出来ていないのだろう。
 私は老婆に礼を言うと、もう一つの目的地である墓地を目指して歩き出した。
 落胆とも違う、絶望よりも深くない哀しみが私の心に広がる。
 私は勝手に彼の遺族に期待していたのだ。正直な所、私の理想の押しつけである事は重々承知しているつもりだ。それでも夢を抱かせて欲しかった。
 あんなに幸せそうに家族の事を話す彼を見ていたから、キット遺族もそうなのだと。家族と言う絆がそこにあり、彼が新Dな後もまだ続いているという幻像を抱いていたのだ。
 現実の家族がいとも簡単に乗り換えられていく中で、違うものを見たかった。
 彼ならば大丈夫かもしれないと、思い込んでいた所もあった。それらは全て私の期待の押し付けでしかなかったのだ。
 花屋で控えめな色のものを幾つか選び、花束を作ってもらった。輪ゴムで一まとめにした上からセロファンをテープで貼り付ける。リボンをつけるかどうか聞かれたが追加料金になるらしいので止めておいた。
 旅の終りを締めくくる花束は、しゃらしゃらと葉や花弁の擦れる音がした。
「失礼」
 墓地の前で車に花束をぶつけたので中の人物に謝る。知人を待っているのか、運転席の男は軽く会釈した。
 墓地の方から男の家族と思われる二人連れが手を振っている。遠目であったが手をつないだ大きな影と小さな影が見えた。
(……家族、か)
 あの車の人達は、その絆がどれほど脆いのか知っているのだろうか?
 いや知るまい。知らない方が幸せだ。
 生前どれほど仲がよくても、死んでしまえば、全てが無くなる。少しづつ、ゆっくりと名残は消えて行き、過去の事象へと押し流されていく。
 そんなパターンをいくつも見てきた。それが彼にも当てはまった事が残念なだけだ。
 規則的に墓石が並ぶ中、数多らしい一角に花束を捧げた。名前と生没年とが掘り込まれ、うっすらと下部は緑に染まっていた。白い石が水に塗れて、日光で蒸発した部分と元々塗れて居なかった部分とで、不思議な模様を描いていた。
「熱かったろう。今日も、あの時も熱かったろう」
 私は墓石に語りかけた。そこに誰も居ないとわかっているのに、返事を求めない言葉ほど寂しいものはないとわかっているのに、語りかけずには居られなかった。
 彼の死はヘリコプターの爆発によるものだった。
 前線から引き上げる途中、部隊が乗り込んだヘリに敵のロケット砲が命中した。私だけがヘリに乗って居らず、彼が私を引き上げようと、手を差し伸べた瞬間に襲撃されたのだ。
 偶然にも彼が壁になり私は炎と衝撃を免れ、部分的な重度の火傷と骨折のみで助かった。 他にもヘリコプターの部品が身体に入り込んだりもしたが、それほど重たいわけではなかった。
 私が生き残ったのは彼のおかげだった。
 そっと墓石に手を当てる。
 まだ乾ききって居ない墓石が日光に当てられ、蒸気を上げていた。私の先に誰か来たのだろう、花も添えてある。
「先客が来ていたか」
 私はそう呟き……自分の言葉に、ふと考え込む。
 これほど陽射しが強い日に、まだ墓石が塗れているという事は、ついさっきまで誰かが居たという事だ。だとしたら、墓参り客と会っていてもおかしくない。
 だが私が会ったのは、あの子供連れだけ……。
「まさか」
 私ははっとなり、立ち上がった。墓地の入り口へと走り出す。
 長い間に随分と体が訛っていたのだろう。思うようにはスピードが出なかった
 焦りと期待と、不安を抱いたまま、墓地を走りぬける。
 間に合うだろうか?
 彼等はもう車で出発しては居ないだろうか?
 不安が心の中に満ちてくる。だがここで彼等と会う事も無く、別れてしまうならば、私はきっと後悔する。
『妻と、子供が居るんです。お腹の中にですけどね』
 彼の言葉が頭の中で回っている。人の良さそうな笑顔を浮かべ、うんざりするほど私に家族の写真を見せていた。
 彼に似た両親。
 彼には勿体無いと評判の妻。美しい白の毛並みが印象的だった。

 墓地の入り口のアーチが見て、私はその向こうを目指した。
 先程ぶつかった車は止まっているだろうか? そんな不安が、心拍数を上げていく。
 ようやく墓地の外に顔を覗かせた時、私の目に三人の姿が写る。
 車の外で話している三匹の猫。体格の良いオス猫と、白い毛並みのメス猫と、白猫に抱きかかえられた、白に茶色の斑模様の小猫。
 かつて無い程の緊張に包まれながら、私は家族達に近付いた。
 車の音がとても遠くに感じる。喉が乾いて、嗄れ声しかでないようだ。それでも私は女性へと声をかけた。
 ただあまりに緊張していて、自分の声が耳に届いていなかったが。
 私の声に家族は驚いたように振り返った。
 写真と同じ白い顔が、笑顔を浮かべる。柔らかな顔。
 小猫が心地のいい鳴き声を出した。まだあどけない小さな顔がじっと私の方を見た。
「亡くなったご主人から、預かり物があるんです」
 そっとクルミ製の指輪を取り出し、婦人へと差し出した。婦人の白い手に小さな指輪が添えられる。
 刻まれた名前を確認し、婦人から穏やかな笑みが零れた……。


おしまい


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