夏の訪問

 バスの窓から見えるのは乾いた景色ばかりだった。赤茶色の大地には所どころ緑があるだけで、その地平に入り組んだ渓谷を覗かせている。
 長いこと、その光景が続いていた。
 私は手元の文庫本を読むことも無く代わり映えのしない自然を眺めていた。だが内心は今すぐにでも叫びだしたい。すぐさまバスを止めて、シティに引き返したいほどだ。それが私にとって、どれほど無様なことか分かっているとの云うのに、このまま目的地に着いてしまうのが怖かった
 乾いた大地に似合わず、私の心は随分と不安定に色を変えている。この旅路は危険だ。嫌でも私に過去との対面を強いてくる。
 不安、恐怖、後悔、様々な感情を帯びた色が浮かび、目を閉じていないというのに視界の中にちらついた。
 自然と私の毛は逆立ちヒゲが張り詰める。目の前の世界が段々と別の色に塗りつぶされていくのが分かった。
 陽炎のように定まらない像に、黄色や紫の浮遊物が絡みつき、青空が緑色に染まる。私の中の不安定な色が視界を支配し、映し出す景色までも歪めてしまうのだろう。時々起こる、発作のようなものだった。
(早く終わってくれ)
 私は目を閉じて、これ以上狂った世界を見ないように努めた。
 だが、急激に閉ざされた視界に変わり、今度は聴覚に移動して行ったようだ。バスのエンジン音が言葉のように、私にささやきかけるのだ。
 ブロロロ。
 聞こえる筈が無いのに、虫の鳴き声と発砲音が耳の奥で鳴り響く。振動と重なり、エンジン音はある言葉をつむぎ始めた…。

「走るんだ!」
 遠くで銃声が引っ切り無しに聞こえ、爆発音が断続的に響いた。
 これが幻聴なのだと分かっているのに、私の体はまるでその場所に居るかのような感覚を持っていた。シートに沈み込んだ筈の体は立ち上がり、草の生い茂る大地を踏みしめている。背広を纏っているというのに、その感触は慣れ親しんだ草色のジャケットと同色のズボンのものだった。
 そして私の手に持っているのは、文庫本だったというのに。
「急げヘリが待っている。……走れ、走るんだ!!」
 草で生い茂った道の角に立ち、私は走り去っていく男達の背中を叩いて、前方へと急がせた。
 慌てたように尻尾を揺らす彼等の手には、物々しく黒光りする物体が握り締められていた。誰もが緊張で耳をピンと伸ばしている。段々と近づいてくる爆発音に、恐怖心を抱きながら、最後尾に留まり警戒する。恐怖で竦みがちな部下達を叱咤し、合流地点まで陽動していた。
 突如、後方で空気を切り裂く音が響いた。
 バリバリと激しい回転音を出し、風を巻き上げながら、ヘリが接近する。
「急いで乗り込め、とっくに退却命令は出ている」
 声を張り上げながら、彼等にヘリに乗り込むように促した。
 私は一番後ろの男……大きな無線機を背負い、もたもたと走る白と茶色の男の背中を掴んで走り出した。
「もたもたするな!」
 私の一喝に彼は申し訳なさそうな顔を浮べる。走り難いだろうに、重たい無線機を大事そうに抱える姿が何ともこの男らしかった。
「全員退避完了だ」
 ヘリに乗り込んだ男達が奴を引き上げ、私はその言葉とともに、自分に向けて差し伸べられた手を掴んだ。
 ……筈だった。

 ガタン!
 大きな音を立ててバスが止まった。私は目の前のシートに頭をぶつけて我に返る。
「次はノーザンヴィレッジ、お降りのお客様は忘れ物の無いようにお気をつけ下さい」
 車内アナウンスの声にはっとなり、降車ボタンを押した。
 窓の外は赤茶色の世界に区画整理のされた緑の町を映し出している。あの街がノーザンヴィレッジなのだろうか。村とは云いがたい規模の行政区画だが、この街の名前は開拓時代の名残だと聞く。
 不毛の荒野に小さいながらも森を作り、その周りに住宅地、綿花畑が続いていた。ノーザンヴィレッジは小規模な計画都市だった。
 渓谷からの地下水脈が無ければ、ここに町など作らなかっただろう。開拓時代でなければ、このような所に町を作ろうなどとは思わなかっただろう。
 取り立てて魅力的な資源も無い、観光地としての見込みも無い、それでも人が生きていけるだけの町。ノーザンヴィレッジとはそのような町だった。
 町の入り口で私を降ろすと、バスは走り去っていった。町名の刻まれた看板が寂しく佇んでいる。私は肩掛けバックから地図を取り出し、一歩町へと踏み出した。
(とうとう来てしまった)
 重たく息を吐き、この寂れた町を旅の終着地にすべく、メインストリートを歩き出す。じろじろと私を見る町民達視線が突き刺さった。
 それほど人通りは多くないが、見慣れない人間に対する態度は誰もが共通している。寂れた田舎町によくある歓迎だ。
 それに私の格好は人の視線を集めやすい。
 私の奇妙ないでたちがそうさせるのだろう。真夏だというのに、照りつける太陽に素肌を晒すことも無く、長袖のスーツを帽子、皮の手袋を纏っている。昔なら半袖のTシャツにズボンという格好で外をうろつけたのだが、恐らく今では無理だろう。
 夏でもこうして肌を隠さねばならないのだから。
 太陽からの熱線にじわりと汗が滲む。人々の冷ややかな視線を感じ、私は俯く。殊更、肩掛けバックが重たく感じられた。

 照りつける太陽は私から水分を蒸発させるつもりなのだろうか。焼け付くような熱さを背中に感じた。
 歩いて移動しようと思ったのが間違いである。
 葉の繁って居ない街路樹は、陽射しを防ぐ事も無く、枯れ木のような姿を晒している。
(このまま干からびるか……)
 漠然とミイラ化した自分の死体を想像し、気持ちの悪さを覚えた。運の悪い事に町に入ってから見かけるのが、ミイラのようにやせ細り皺だらけの老人ばかりだ。
 時折若者の姿も見かけるのだが、こんな昼間から街をうろついている連中だ。ろくな人間では無い。
 手元の地図によると、目的の場所まで随分と掛かるようであった。私はひとまず休憩を求めて近くの喫茶店へと入った。
 ウェイトレスに案内されて、窓際の席へと座る。食事時を過ぎた時間帯とあって客のまばらな店内は、僅かな会話とクラシックが流れ、落ち着いた雰囲気を醸し出していた。
 薄緑色の壁紙に、淡水で描かれた風景画と、モノクロの写真が飾られている。他にも店主のコレクションを思しき、変わった形の壁掛け時計や、絵皿が店内に彩りを沿えていた。
 私はコーヒーを頼み、奥に消えていくウェイトレスの背中を眺めていた。
(女性の背中を見るのは、随分と久し振りだな……)
 コーヒーが来た時にでも道を聞いておこう。そう思いながら、私は窓辺の景色へと目を向ける。
 しかしその視線を向けるのは現実の光景ではない。バスの中と同じように私の意識は過去へと向かっていた。

「ティム、あなた顔色が悪いわよ」
 そう云ってジェシーが額に手を乗せる。
「……昔から不景気な面だったろ」
 ジェシーの手を払いながら、私は面白みにかける冗談を返す。冷めたコーヒーを一気に飲み干すと、明細を手に席を立ち上がる。
「ティム、待って。真面目な話なの」
 服の袖が掴まれ振り返る。彼女もヒトの事を言えた顔ではなかった。随分と疲れているのか、毛にツヤがない。
「君も酷い顔だね」
「あなた程じゃないわ。……ずっと眠れてないんでしょう? 心配なのよ、あなたの事が。お医者様の所だって行って無いって聞いたわ」
「精神科の通院記録は就職に響くんだ。そう何年も通っていられないさ」
 ジェシーの顔が悲しそうに歪む。心の隅で彼女にそんな顔をさせた事を後悔しているのに、私は何一つ言葉を掛けようとしなかった。
「お父様が郊外の静かな所に住んだらどうかって、辛い思い出が癒えて、貴方の心が休まってからで良いの。……だから」
「君の頼みは受け入れられないよ、ジェシー。君が残りの人生を棒に振る必要は無いんだよ。君の家族だってそうだ」
 「忘れてくれ」そう言葉を続ける。
 仮にも婚約を目前にした女性に『忘れてくれ』とは、随分と調子のいい言葉だ。それでもこれが偽らざる本心なのだからしょうがない。
「あなたのその言葉は受け付けないわ。私にだって、残りの人生を棒に振ってでも楽しみたいことがあるんだから」
(ああ。だから忘れて欲しいんだ、ジェシー)
彼女の言葉が私の心に刺さる。やさしさにおぼれてしまいたいのに、その一方で息苦しい。
「貴方は十分に償いを果たした。そうでしょ? どうして神様はあなたの皮膚と手足をお奪いになさったの。あなたを十数名の方々と共に、その御許に召さなかったの?」
 ジェシーは私の償いが終わっていると云う。神父も精神科医も、彼女までもが口を揃えて同じ事を言う。
『あなたは悪くない』と。
「君が信心深いとは驚きだよ。祈りの時間を疎かな君がね」
「私だって、神様は信じているの。あなたが生還した時は神様に感謝したもの。…今すぐ、という話ではないの。あなたが落ち着いたらで良いのよ。それまで待つつもりなんですから」
 彼女は私の皮肉に動じることも無く、優しい口調で諭すと、そのまま店から出て行く。不覚にも、明細は彼女に奪われ、私のコーヒー代も変わり払われてしまった。

 故郷の町で、退職金と保険だけで食いつないでいるのが、現在の私だ。
 こんな私と連れ添うと公言している女性には、『別れてくれ』だの『忘れろ』だの、みっともない言葉を言い募る毎日。
 なんと情けない有様だろうか。
 これがかつて陸軍歩兵部隊にいた男の成れの果てなのだ。
 私はウェイターにコーヒーを注文し、胸ポケットから古ぼけた指輪を取り出した。
『妻が彫ってくれたものです。妻の私のイニシャルがあるんですよ』
 白と茶色の毛色の男は私にそういうと、クルミの木で作った指輪を見せた。木彫りの指輪なんて、戦場じゃなくなってしまうと忠告すると、あろう事か私に預けてきた。
『軍曹殿なら、大丈夫でしょう?私と違って真面目だ』
 私を持ち物扱いしておいて、男は悪びれた様子も無く云った。
「指輪は無事だったがな」
 クルミ製の指輪を確認する。
 内側に彫られたイニシャルは二つ……その片方がこの世の人でなくなって、すでに数年が経つ。様々な手違いにより、いまだ私の手元にあるこの指輪。
 それを返すときが来たのだ。

「すまないが道を教えてくれないか?」
 私はコーヒーを運んできたウェイトレスに地図を指差し、目的地までのバスの乗り方などを聞く。
 そうだ。私はこれを返しに来たのだ。彼の妻と、生まれているであろう子供に。

 ウェイトレスから教えられた通り、バスに乗って、公園沿いの住宅地へと向う。
 かつての部下、私以外の第3小隊の連中たちの墓参りを計画したとき、家族にも会って置こうと決めたのだ。
 彼等の埋葬に立ち会うことも無く、慰霊祭にも参加することが出来なかった身としては、こうやって戦争が終わった後から、遺族の元を尋ねる以外に方法が無かった。
 私の決断に精神科医は良い顔をせず、神父は曖昧な笑顔を浮かべ、ジェシーは何も言わなかった。
 それが遺族の傷を抉り、彼等の悲しみを土足で踏みにじる行為であると分かっている。私は彼等の塞がりかけた傷口を広げに来るのだから。
 だが私にとっては、必要だったのだ。
 彼らという部下を持ちえたこと彼等が異国の地で灰になってしまったこと、私だけが 生き残ったこと。それが神の御業であったとしても、彼が治めるのは死後の領域だ。現世ではない。
 まだ先の残された私には、自力でこの不条理と付き合わなければならなかった。
 私の訪問に遺族達は様々な反応を見せた。
 私を歓迎するもの怒りをぶつけるもの、どれも少数派だ。本当に多かったのは、すべてが過去となり、彼等を『忘れたい出来事』として認識している人々。
 遺族への保証金も支払われ、論理のみが問題化した今となっては、あの戦争は過去の汚点となった。後には平和を取り戻した日常に放り込まれ、喪失を抱えた人間たちが残るのみなのだ。
 遺族達はささやかな日常を守るために、新たな人生を踏み出した後であり、旅立ちに不要な多くのものを捨て去った後であった。
 引っ越しして住人の変わった家、あるいは新たな家人を迎え入れた後の家チャイムの向こうに、部下達との接点を見つけるのは困難だった。
 それでも私は遺族のもとを訪ね続けた。そして私の旅もついに一人の部下の遺族を残すのみとなった。
『故郷の小さな町に、妻が居るんです。実は子供も居るんですよ。お腹の中にですけど』
 そう云った彼の遺族は、果たして残っているのだろうか。彼の家族達は、彼の存在を過去の物にしてしまっていないだろうか?
 あの角を過ぎた先、三件目の家が彼と彼の遺族達の住居だ。
 私の頭に白と茶色の男の姿がちらついた。

 彼が私の下に配属されてきたのは、戦争も末期に差し掛かった頃だった。軍役のものならば誰でも良いと言う様に、各地から手当たり次第に集められた若者達はろくな訓練も受けずに、前線へと送り出されていた。
 彼もまた、その一人だ。
『君は無線兵なのか?』
 その小柄な体格を怪しみ、私は彼に聞いた。善良そうな顔が、満面の笑みを浮べて私の言葉に頷いた。
 白い毛並みに浮かぶ茶色の斑が印象的だった。

 私は男の住居だった場所の前で呆然と立ち尽くしていた。
(一体、どういうことなんだ)
 目の前の光景が信じられず、まるで私だけが時間から切り離されたような感覚に陥る。
 小さな一軒家は無人のまま放置され、荒れるに任せてあった。玄関や窓には外側から板が打ち付けられ、目を引く『売り出し中』のビラがあちこちに貼り付けられている。
 この家の住人がいないことは明らかだ。私の頭の中の彼の笑顔が、霞んで消えた。
 彼の遺族は思い出と共に住処を捨てたのだろうか、それとも……。
「この家の人達なら遠くの町に引っ越して行ったよ」
 私は近所の老婆から事情を知った。
 遺族は彼を捨て、新たな家人を迎えて遠くの町に行ったのだと云う。
 戦争で家族をなくした人間に、世間は優しくなく、思い出を抱いて生きていけるほど、容易くは出来ていないのだろう。
 私は老婆に礼を言うと、もう一つの目的地である墓地を目指して歩き出した。
 落胆とも違う、絶望よりも深くない哀しみが私の心に広がる。
 私は勝手に彼の遺族に期待していたのだ。正直な所、私の理想の押しつけである事は重々承知しているつもりだ。それでも夢を抱かせて欲しかった。
 あんなに幸せそうに家族の事を話す彼を見ていたから、キット遺族もそうなのだと。家族と言う絆がそこにあり、彼が新Dな後もまだ続いているという幻像を抱いていたのだ。
 現実の家族がいとも簡単に乗り換えられていく中で、違うものを見たかった。
 彼ならば大丈夫かもしれないと、思い込んでいた所もあった。それらは全て私の期待の押し付けでしかなかったのだ。
 花屋で控えめな色のものを幾つか選び、花束を作ってもらった。輪ゴムで一まとめにした上からセロファンをテープで貼り付ける。リボンをつけるかどうか聞かれたが追加料金になるらしいので止めておいた。
 旅の終りを締めくくる花束は、しゃらしゃらと葉や花弁の擦れる音がした。
「失礼」
 墓地の前で車に花束をぶつけたので中の人物に謝る。知人を待っているのか、運転席の男は軽く会釈した。
 墓地の方から男の家族と思われる二人連れが手を振っている。遠目であったが手をつないだ大きな影と小さな影が見えた。
(……家族、か)
 あの車の人達は、その絆がどれほど脆いのか知っているのだろうか?
 いや知るまい。知らない方が幸せだ。
 生前どれほど仲がよくても、死んでしまえば、全てが無くなる。少しづつ、ゆっくりと名残は消えて行き、過去の事象へと押し流されていく。
 そんなパターンをいくつも見てきた。それが彼にも当てはまった事が残念なだけだ。
 規則的に墓石が並ぶ中、数多らしい一角に花束を捧げた。名前と生没年とが掘り込まれ、うっすらと下部は緑に染まっていた。白い石が水に塗れて、日光で蒸発した部分と元々塗れて居なかった部分とで、不思議な模様を描いていた。
「熱かったろう。今日も、あの時も熱かったろう」
 私は墓石に語りかけた。そこに誰も居ないとわかっているのに、返事を求めない言葉ほど寂しいものはないとわかっているのに、語りかけずには居られなかった。
 彼の死はヘリコプターの爆発によるものだった。
 前線から引き上げる途中、部隊が乗り込んだヘリに敵のロケット砲が命中した。私だけがヘリに乗って居らず、彼が私を引き上げようと、手を差し伸べた瞬間に襲撃されたのだ。
 偶然にも彼が壁になり私は炎と衝撃を免れ、部分的な重度の火傷と骨折のみで助かった。 他にもヘリコプターの部品が身体に入り込んだりもしたが、それほど重たいわけではなかった。
 私が生き残ったのは彼のおかげだった。
 そっと墓石に手を当てる。
 まだ乾ききって居ない墓石が日光に当てられ、蒸気を上げていた。私の先に誰か来たのだろう、花も添えてある。
「先客が来ていたか」
 私はそう呟き……自分の言葉に、ふと考え込む。
 これほど陽射しが強い日に、まだ墓石が塗れているという事は、ついさっきまで誰かが居たという事だ。だとしたら、墓参り客と会っていてもおかしくない。
 だが私が会ったのは、あの子供連れだけ……。
「まさか」
 私ははっとなり、立ち上がった。墓地の入り口へと走り出す。
 長い間に随分と体が訛っていたのだろう。思うようにはスピードが出なかった
 焦りと期待と、不安を抱いたまま、墓地を走りぬける。
 間に合うだろうか?
 彼等はもう車で出発しては居ないだろうか?
 不安が心の中に満ちてくる。だがここで彼等と会う事も無く、別れてしまうならば、私はきっと後悔する。
『妻と、子供が居るんです。お腹の中にですけどね』
 彼の言葉が頭の中で回っている。人の良さそうな笑顔を浮かべ、うんざりするほど私に家族の写真を見せていた。
 彼に似た両親。
 彼には勿体無いと評判の妻。美しい白の毛並みが印象的だった。

 墓地の入り口のアーチが見て、私はその向こうを目指した。
 先程ぶつかった車は止まっているだろうか? そんな不安が、心拍数を上げていく。
 ようやく墓地の外に顔を覗かせた時、私の目に三人の姿が写る。
 車の外で話している三匹の猫。体格の良いオス猫と、白い毛並みのメス猫と、白猫に抱きかかえられた、白に茶色の斑模様の小猫。
 かつて無い程の緊張に包まれながら、私は家族達に近付いた。
 車の音がとても遠くに感じる。喉が乾いて、嗄れ声しかでないようだ。それでも私は女性へと声をかけた。
 ただあまりに緊張していて、自分の声が耳に届いていなかったが。
 私の声に家族は驚いたように振り返った。
 写真と同じ白い顔が、笑顔を浮かべる。柔らかな顔。
 小猫が心地のいい鳴き声を出した。まだあどけない小さな顔がじっと私の方を見た。
「亡くなったご主人から、預かり物があるんです」
 そっとクルミ製の指輪を取り出し、婦人へと差し出した。婦人の白い手に小さな指輪が添えられる。
 刻まれた名前を確認し、婦人から穏やかな笑みが零れた……。


おしまい

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