雪の日

 この季節になるといつも雪に悩まされる。電気の供給が止まったり、水道の蛇口をひねっても何も出なくなったり、十時間以上の渋滞だったり、それは一年にあるかないかの降雪に、何の対策もしてこなかった色々な立場の様々な人のツケが回ってきているからだろう。
 ミノリは冷たくなったドアノブの引いて部屋の中に入った。外は雪で、アパートのベランダにも雪が積もっていた。生来面倒くさがり立ったから、設置してあれやこれやと植えただけのプランターのハーブは枯れてしまっていた。それにハーブだといっても鶏肉を焼くときにローズマリーを使うぐらいで、あとは何の目的が在るのかもわからなかった。
 二ヶ月に一回程度通うアロママッサージの店でハーブティーを買いだめしているのだけれども、それがミノリの心を癒してくれるのかどうかはわからない。暖かいものを飲むとほっと一息つく、実際はそれだけのことかもしれないのだ。
 ガスコンロの火をつけてヤカンの湯をわかす。蛇口をひねると、不安定な音を立てながらあまり飲料には向かない水が流れてくる。
 風呂場にお湯をためて、狭い室内のエアコンを入れる。唯一の窓といいっていいベランダに面したガラス窓からは、白く降り注ぐ粉雪が見て取れた。物干し竿のかかったままのベランダの桟にはうっすらとボタ雪が積もっていた。日付変更線より西、関門海峡を渡った先の小さな島では雪の水分量が多くなる。気温次第では一日ひどい降雪に見舞われても、日中には溶け出すということもある。それでも数年前まで、もしくは十年前にはツララが下がっていたし、雪の日は年に一回だけではなかった。
 ガタンと急に部屋の明かりが消えてミノリは戸惑った。窓から眺める空は暗く青い。そして雪だけが白く光っているのだ。家々からの明かりは消えていた。
シューと音が鳴るままにしていたヤカンの火も消えている。雪で電気が止まったのだろうか。コプコプとガラス製のティーポットにお湯を注ぐ、ツンとしたけれど不快ではない香りにミノリはどこかでほっとした。部屋の中だけれども寒いから出歩きようのパーカーを羽織り、その上からちゃんちゃんこを着た。靴下は二杯履き。ベッドと貸したソファに毛布を持ち込んで、電気が回復するまでの時間を持て余す。近くに置いてあるハーブティーのポットからは柑橘系の香りが立ち上っている。懐中電灯とアロマキャンドルで非常時の灯りをとり、携帯電話を開くと幾人かからの着信とメールが入っていた。電気がとまったから、長いこと通話はできないだろう。ミノリは返事をすべてメールで済ませた。

 電気が回復したのはそれから数時間後だった。
 だいぶ暗くなった部屋に電気がつく。ジイーと音を立てて白熱灯が明るさを取り戻すまで、しばらくの時間を要した。沸かしたまま途中で止まっていた風呂釜が再度動き出す音は、それからしばらくたってのことだ。
 蛇口をひねると、水は出なかった。水道管が固まっているのだろう。
 水が必要で、何より食事が必要で、それでミノリは買出しに出ることにした。ガラス一枚隔てた向こうでは、暗い景色の中でポツポツと明かりがともっている。歩いて数分のコンビニが復旧しているのか不安だったけれども、飲料水の確保と晩御飯が必要だからと、ミノリは普段の外出はブーツで済ませるのだけれども、雪だからスポーツ用のヒモ靴を選んだ。
 サクサクと音をたてて、雪がミノリの体重に踏み潰される。コンビニまでの通り道には公園があった。そこにいたのは一人の老人。寒い中何を思って留まっているのかはわからない。老人を一瞥し、ミノリは再びコンビニへと向かった。コンビニで飲料水のペットボトルと弁当それとお菓子を、レジで肉まんに引き寄せられて買って帰途につく。
 雪はまだ降り積もっていた。ボタ雪ではなくて粉雪。だから、まだ積もる確率は高い。
排水溝の金具に滑りそうになりながら、ミノリは先ほどの公園のそばを通りかかる。そこにはまだ老人がいた。いつもなら気にせずに通り過ぎてしまう老人は、しかし別の事態によりミノリの足をむけさせることになる。

 ミノリの一歩前で立ち止まっているのは白い子供だった。ああ雪の日だからだ、と頭の中で納得する。
 ミノリは引き返した。くるりと振り返った先にいたのも目の前にいた子供だった。白い髪白い顔、目だけが黒い、見知らぬ子供。それは雪の日になるとミノリの前に現れる、多分幽霊とか一般的に呼ばれる部類のものなのだろう。
 年は三歳から四歳ほど。
 子供が一歩近づいてくる。ミノリは同じく下がる。
「ダメよ。ダメなの」
 ミノリの言葉は子供には何の効果ももたらさなかったようだった。
 なおも近づく子供に、逃げ場所を探してミノリの視線はすぐ近くの公園へと向かう。そこにいるのは老人ただ一人だ。助けを求めるなんて、きっと変な人間だとしか思われないだろう。けれど彼しかいなかった。
 ベンチに駆け寄る。
「おひとつどうですか」
 先ほどコンビニで購入した肉まんを差し出して、老人に語りかけた。相手は当然断る。
「何か御用で、何もなければ暫くお時間を取らせてください」
「何のことだか」
「ちょっとの間でかまいません。ただ誰かがそばにいてほしいんです」
 ミノリが差し出した肉まんを老人は受け取る。それは了承の言葉だったのだろう。
 
「どうしてこんな日に公園にいるんですか」
「家だと、落ち着かなくてね」
「でも、寒いでしょう」
 老人はコートを羽織り、ベンチの脇には松葉杖があった。顔は公園の一点に向けられている。彼が視線を向ける先にはなにもない。ただジャングルジムとシーソーの中間地点で、金のゴミ箱があるだけだ。
「雪の日には、会えるんです」
 老人の言葉にミノリははっとした。
「見えてらっしゃるんですか」
「いいや、でも逃げてるんだろう」
「しばらくしたら消えるんです。でも家の中には入ってこないから」
 老人が会いたいものとは何だろう。ミノリにはわからない。けれども、先ほどの子供と同じものではないだろうか。いいや、それはミノリの思い過ごしに過ぎない。
 誰も気づいてなんかくれないだろう。
 けれど、誰か、もし世界が広いなら、同じような人間がいるかもしれない。そしてそれが老人ならば……。
「雪の日に彼女がくるんです。本当はもっと寒い日にくるんですが、最近は暖かくなる一方だから、この季節でも合えるのかどうか。とても限られているんです」
 その言葉で老人の会いたいものが、ミノリと同じ世界のものだとわかった。
「私も雪の日にだけ出会う子供がいるんです。私に会いたくて来ているのはわかるけれども、それでもダメなんです」
「それが正しいんでしょうね」
 老人の言葉は穏やかだった。
 だからこそ悲しかった。ミノリにも恐怖心以外の感情がある。だた相手がそれを向けてはならない存在だからこそ、どうしようもないのだ。
「雪の日は不思議です。合いたいのに、決して触れてはいけない人が来てくれる。
――彼女は一緒になれなかった女性です。遠いところからきてくれるのに、触れてはいけない。彼女が病気で苦しんでいることを、私は知らなかったし、そのときには別の家族がいた」
 老人の理由はぼやけていたけれども、簡単にミノリに打ち明けるあたりが年齢の違いなのだろうか。
 ふと視線を向けると子供がたたずんでいた。数歩離れて見知らぬ女性も立っている。冬なのに半そでのブラウスだ。老人に会いにきた女性だろうか。子供は白いコートを羽織っている。どちらも全身が白尽くめだった。その顔も血が通っていないように白い。
 雪の中に消えてしまいそうな姿、遠くもあり近くでもあり、届かない領域の人々だ。
「触れてみたら、どうなるだろうと考えます。でもダメなんです。触れる勇気がない」
 ミノリは雪の日が嫌いだ。だって、そんな日に限ってあの子は来るのだ。けれど、ミノリを脅かしはしない。
 ただ目に映るだけ。それが哀しいから雪の日が嫌いだ。
 ミノリは手で顔を覆う。償いは取れないだろう。贖う道はないのだ。ただ祈り、願い、彼岸に向かうことを切望する以外に。そしてもし雪が降るたびにミノリの前に現れるということとは、まだ渡れないでいるということなのだろうか。
「抱いてあげられないんです。抱いちゃダメなんです」
「いずれ抱いてあげればいいでしょう。そんな時期がきっときます。ふと一人になって何年もたってから、思うんです。別に彼女は責めてなんかいないんじゃないかと」
 老人が松葉杖をつきながらベンチから立ち上がる。
 片方の足が欠けた姿であった。
 杖を突きながらまっすぐに向かうのは子供の方だ。
「いけません!」
 ミノリの叫びに老人はゆっくりを振り替える。そこには笑顔がある。
 空いたほうの手で子供の手を取る。そして今度は白いブラウスの女性へと向かった。
「ダメです!今すぐ離さないと!!」
 ミノリは怖くてベンチから動けない。老人が女性の胸に顔をうずめる。そして女性は老人を抱きしめた。
 子供が二人の間に割って入る。
 ミノリの心に叫びにも似た感情が走った。
 あの子は自分の子供だったのだ。しかし目の前の光景はミノリを放って、三人だけのものとなっている。今すぐ駆け寄って、引き剥がしてしまいたい。
 くるり、と老人が振り返った。そこには笑顔がある。
 ああ、とミノリは自分の気持ちがわかった。
 ビュウと風が吹く。吹き付ける雪にミノリが目を閉じて、空けたときには老人の姿も子供も、女性も消えていた。ただ足跡がまっすぐに雪の上に落ちてた。
 そして肉まんが一つなくなっていた。

 水道が止まったまま一晩を過ごし、出勤したが雪での渋滞で早めに家を出たというのに、職場には遅れてしまった。仕事から帰ったときには水道の水は元に戻っていた。
 もう雪は氷となって、そして日中にあらかた解けてしまったようだ。ベランダのブランターに霜が降りている。
 喧嘩したまま、連絡を絶っていた恋人からメールが届く。他県の友達に水道が止まった経緯を説明する。それらの作業が、普段ではわずらわしいのに、どこかでうれしくもあった。
 テレビでは老人の孤独死が報道されている。果たして消えた老人なのかわからない。けれどももしかしたら、彼ですら幻だったのではないかと思う。ニュースで報じられている彼は家から一歩も出ていないのだから。

 ブルブルとコートのポケットに入れたままの携帯電話がメールの受信を告げていた。恋人からの用件だった。
 いつもと変わらず返事をしつつ、ミノリは長いこと付き合ったまま言えずにいる言葉に対して、ほんの少し臆していたものが消えているように思えた。
 もしかしたら、数日中に切り出せるかもしれない。

 ミノリにあの子供を抱く権利はなかったのだ。けれどミノリは母親になっていた。どんな形であれ、胎内から出したのなら、あれはミノリの子供なのだ。抱くことも名前を付けることも、顔を見ることもなかった、物体でしかない子供の、それでも母親だったのだなと苦い思いが駆け抜ける。
 けっして抱きしめることはしてはならない。
 その資格がないからだ。
 今までは断罪の目的なのだと思っていた。違うのかもしれない。答えはきっとそのうち、ミノリの環境が変われば受け止め方も違ってくるだろう。
 そうなるよう切り出すことに対して、ミノリの中で後ろめたさが薄くなっていることを自覚しながら、通話ボタンをきる。
 抱く資格を失ったけれども、新たな子供を抱いてあげよう。あの時、ミノリが幼かったばかりに守れなかったのは、子供とミノリと、そして無条件も通じ合うことができる権利だったのだろう。代替は利かない。罪といっしょに抱くしかないのだ。
 吐き出した息は、くすんだ夜空に吸い込まれていった。なんとなく、もう子供がミノリの前に現れないような気がした。天気予報では、当分は雪が降る予定もなく、昨日の降雪こそが今年最後の雪だったことを告げている。
 来年も振るのだろうか。今年のようにボタ雪と粉雪の組み合わせかもしれない。
 そしてあの子供は……もしかしたら、もう会えないような気がする。
 ミノリの心に浮かんだのは、消えてしまった雪への寂しさだった。
 結果はどうであれ、来年、ミノリは新たな命を抱くことになるのだろう。後ろめたさはない。ただ罪とともにあるというだけだ。しこりは消えていた。

 もう空から白い雪は降っていない。
 今年最初で最後の雪の日は終わっていた。
 
 

おわり