小さな冬の話

 ノリコは迷っていた。 誘惑に従うことも可能だったが、その場合、誰も近くに居ないことを確認するべきである。
 幸運な事に近くには人の気配どころか小鳥のさえずりさえない。
 自身の奥底から湧きあがった衝動を抑える事が出来ず、彼女は薄く引き伸ばせば反対側が透けて見える布地を手に取った。
 欲望に身を任せてしまえば後は躊躇いもなく行動に移してしまう。
 ノリコは薄い布地を頭へと持って行き息を止めて振り下ろした。
 視界が茶色に染まる。というよりも伸縮性の強い布地に、視界は狭められほとんど働かない。顔の肉が引き攣り、頭部を暖かい感触が包んだ。
 ……心地良い。
 うっとりと薄い布地を被りながらノリコはニット帽よりも頭部にフィットした感触を味わった。
(いけない。こんな事をしている場合ではないわ!)
 慌ててノリコは姿見で自分の身なりを確認する。
 布地をずらし生地の薄い箇所へと移動させると、不鮮明だった視界は遥かにクリアになった。
 だが姿見からはノリコの表情は分からない。
 鏡の前では茶色の変なものを被った自分自身が覗きこんでいるのだ。
 確かに無様ではあったが視界はハッキリしているし、鬱陶しい髪の毛も上手い事不快に感じないよう処置する事ができる。
 なにより表情が見えない。
 この布地独特の伸縮性は頭部を苦痛なく締め付け、むしろ心地良さを与える。いつも欠けていると思っていた何かが、これで補われているような気がした。
 次にどれ位視界が鮮明かとM60のモデルガンを手に確めて見る。照準を玄関に定め、ドアノブを狙えるだろうかと、他愛も無い思いを抱いた。
「すいませーーん、新聞の集金です」
 玄関を鳴らすチャイムの音にノリコは習慣的に即答した。
 築30年以上のボロアパートの玄関は、在宅時にはカギを掛ける事も無く、容易くドアを開かせる。
 軋むドアを開けて集金が目にしたのは、M60の照準を自分に向けているノリコと、その危険な姿である。
「いくらかしら。今すぐ用意しても良いけど?」
「イエ、いいです。失礼しました」
 慌てて集金は飛び出して行った。
 開けっぱなしのドアからは、冬の冷たい空気が流れ込んでくる。
 変な集金だとノリコはM60を丁寧に床に置き、頭部を覆っていた布を引っ張った。
パリパリと静電気が音を立てる。
「暖かいけどやっぱり見た目が変よね」
 ノリコは真っ当な結論を出しよれよれになったストッキングを洗濯機に放り込む。
 
 次なる頭部暖房器具の発掘を開始する彼女に目に股引が留まったのは、その数分後の事である……。


おしまい

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