「ただいま〜」
疲れた体を休めるべく玄関扉を開ける。奥からは夜のニュース番組の声が聞こえ、人の気配が確実にあった。ただし、一日中家に居る妻の私を迎える声も、彼女が廊下から顔を覗かせる様子も無い。
台所に踏み込んだ途端、異変が明らかな形となって私を襲った。足の踏み場の無い荒れ果てた惨状と、キッチンに佇む無言の妻。
「な、何があったんだ」
戸惑いの言葉に妻は返答もせずギラつく視線を向けただけだった。
妻のこのような視線は未だかつて見た事が無かった。
まだ新婚ホヤホヤの家庭とは言え結婚前の付き合っていた時だって、こんな険しい表情を見せた事は無い。
浮気した時も「は?」で済ませてくれた心優しい彼女だと言うのに。
ましてバーゲンセールの時だって、狩猟本能を剥き出しにする事はあっても、ここまで殺伐とした空気をまとう事は無かった。
「どうしたん――」
言いかけた言葉を遮るようにヒュンと風が頬を掠める。
いや、風ではない。
ツーと頬をなめらかな感触が滑り落ち確めるべく手で抑えた。掌が赤く滲む。
怯えながら視線を風の行き先へと向けるとクリーム色の壁紙に突き刺さった包丁が視界の端で止まった。
「な、なん……」
ガクガクと恐怖に震えマトモな言葉を成す事が出来ない。
あと、もう少し右だったら間違いなく……。
これは彼女の警告なのだろうか。放蕩…とまでは行かないが、そこそこ家庭を顧みない私への。次は、確実に狙うと言っているのだろうか……。
「……が居たのよ」
少しカサカサの唇から、彼女は掠れた声を出した。
「ゴキブリが居たのよ」
包丁の先には息絶える間近のゴキブリがピクピクと黒い触角を震わせていた。
あの生物に対して反射的に感じる嫌悪感に、私は奇声を上げてその場から離れた。
「ゴキブリが居たの……」
淡々と告げる妻に果てし無い暗闇を見た気がした。
その夜。
こっそりメルトモ達の情報を別の携帯に移動したのは言うまでも無い。
あともう少しで女子中学生のユカちゃんのアポを取れそうだったというのに、メールを控えなければならないのが残念だ。
おしまい
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