黒猫の使い

 どうしようかと途方にくれて、駅のプラットホームのベンチに腰掛けては流れていく列車を眺めて時間を過ごす。これほどに家路を重たく感じたことはなく、ただ閑散とした駅の構内で一人きりになった感覚を俊夫は苦々しく飲み込んだ。
 行くあてがなく、そして家を出ても向かう場所がない。俊夫の職場はとっくの昔になくなってしまったのだから。しかし帰れば妻と子供が待っていた。
 どうしようもなくて毎日スーツを着て出社するふりをする。そして列車に乗らずにプラットホームのベンチに腰掛けて、それから途方にくれるのだ。駅の中のショッピングモールは騒々しくて、その場所に立つだけで息苦しくなってくる。駅からまっすぐに広がる商店街も寂しい地方財政の影響を受けてかシャッターの閉まった店が多く、そして人通りもまばらであった。しかしどこかで俊夫のような行き場所のない人間を撥ね付けるだけの壁を持っているのだ。
 表通りには飲食店や服屋が並び、裏通りになるとビジネスホテルが並んでいる。プルルルと警戒音と共に特急が通り過ぎるアナウンスが流れて、そろそろ帰宅ラッシュが始まるのだと思うと俊夫はウンザリした。普通に会社に行って、普通に帰る人間達があの箱の中に詰まっているのだ。それがとても遠い世界のように思える。
 追い立てられるように俊夫は駅から人のいない方向、寂れたホテルの並ぶ通りへと遠ざかっていく。そこには喧騒もなければ人の姿がもなかった。放り出された地方の寂しさと、忘れ去られて時代に取り残された鉄のすっぱいにおいのする空間だ。一歩はみ出すと昭和の面影だらけの住宅がひしめき、それなりに活気のある生活が根づいた小さな市場が続いていた。俊夫はそこを突っ切って、家とは違う散歩道を進む。どこか人の居ない場所に行きたかった。一人になってしまいたかった。誘われるように過去の記憶を頼りに遊具の撤去された公園にたどり着いたのは、もしかしたら俊夫の願望だったのかもしれない。最初からこの場所を望んで、そしてたどり着いたのだろうかと錆びたブランコに乗りながら俊夫は漠然と感じた。
 太陽が最後の抵抗を見せて鮮やかに照りつける。朝よりも昼よりもまばゆい光が俊夫の汚れた背を、そしてどうしようもない弱さを白日の下にさらしていた。地面に移る影は小さく、そして丸まっていた。まるで石ころのようであり、実際に俊夫の今の状況とはコロコロと坂道を転がっていく小さな石であった。もしかしたら砂の塊かもしれない。コロコロと転がりながら削れていくのだ。角が取れて丸くなる石もあれば割れて小さくなる石もある。俊夫は砂の塊でどんどん、どんどん小さくなって、最後には消えてしまうのだ。
 そこまで考えたときだった。
 黒い塊が俊夫の影の中心でニャアと声をあげる。人間に慣れているのか、それとも俊夫がエサを与える部類の人間だと思っているのか、黒い猫はいつの間にやら俊夫のすぐ傍にいた。
 黒い毛に長い尻尾。不吉な黒猫がニャアと鳴く。
「何もあげられないんだ」
 仕方なく俊夫は猫に言い訳をついた。ポケットには小銭があった。もしかしたら魚肉ソーセージぐらいは買ってあげられたかもしれないけれども、それが俊夫の持ち出せる全財産でもあった。もう出社するフリは通用しない時期にきていた。
 黒猫が三度ニャアと鳴く。
 そしてくるりと背を向けると俊夫に愛想が尽きたように長い尻尾をしならせて、ブランコのポールを通り抜けた。俊夫の目はその黒い姿に吸い込まれていた。そして最後に猫の行き着いた先に俊夫と同じくスーツのズボンが見えたとたん、この公園が安住の地だと思っていた心に冷や水が差す。自分以外の人間が居たのかとわかると、この場所は俊夫がいるべきところではなくなった。恐ろしくて顔が見れない。だから灰色の細い縦じまの入ったズボンに俊夫の視線は固定された。そこに黒猫が体を摺り寄せる。俊夫と変わらない焼けた色の手が猫の背をなでて、革靴の向きが変わった。
 ズリッと音を立てて革靴がまっすぐ俊夫の方へと向かっていく。縦じまのズボンはブランコのポール手前で止まると、黒猫も後を突いて再び体を摺り寄せていた。
「五千万でどうでしょう」
 かつて取引先で聞いてきたかのような平均的な低い日本人の声がかけられた。俊夫の失った世界の出来事のように、簡単なやり取りを持ちかけるような言葉であった。疑うより何よりも自分にかけられた言葉なのだと俊夫は直感した。
 顔を上げるべきなのだろうが、どうしても体が動かなかった。縦じまのズボンをじっと見つめても時間だけが過ぎる。
「あなたの命、五千万で売ってください」
 その言葉で俊夫の感は現実のものとなる。対処の方法など知らない。答えを待っていないのか縦じまのズボンはさらに続ける。
「人間が飛び降りるところを見たいのです。五千万で死んでみてください」
 俊夫の返答を待たずに縦じまのズボンはクルリと向きを変えて去っていった。そのあとを猫がついていく。ポール越しに一度振り返り、ニャアと鳴いて縦じまのズボンの後に従った。
 すでに辺りは真っ赤になっていた。もう家に帰ってもいいころだと気づき、俊夫はブランコから立ち上がる。頭の中では先ほどの言葉がぐるぐると回っていた。ここ数日の出社するふりで知った小さな道を抜け、俊夫は家路へと向かう。そのほとんどの時間を費やしていたのは、自分が飛び降りたら家族の生活は楽になるのだろうかということだった。息子には楽をさせてやりたかった。いい学校に行って、いい会社に入って、俊夫のようなヘマをしないようさせてやりたい。妻はどうだろう。パートだけでは生活は成り立たない。
 ああ、これは飛び降りるしかないのだと心の中で結論を見出しかけたとき、家の並ぶ住宅街に差し掛かった。塾帰りの子供たち、サラリーマン、仕事帰りの若者、それら俊夫が目をそむけていたいものが否が応でも見えてしまう。そのとたん、先ほどの提案に対して僅かなりとも高揚していた俊夫の心はさっと冷めてしまった。
 からかわれたのだと言う考えがチラリと浮かぶと同時に再び俊夫の心は暗く沈んだ。
 家に帰ったフリをして、仕事をしてきたフリをして、そして何気なく妻の質問をかわしながら晩御飯にありついているときだった。今月分の給料の話題に話が向かった。家計を管理している妻は何の不都合も感じていない様子で、今月の出費について触れてくる。たまらずに俊夫は今月の給料についてたずねた。
 本来であれば振り込まれていないはずの額が妻の口から出たとき、俊夫は愕然とした。
 あれは白昼夢の世界の出来事で、そしてただの冗談だと思っていたのだ。しかし現実となってしまった。あの縦じまのズボンと、そして黒猫の姿が脳裏を掠める。ニャーと鳴く猫の顔がニヤリと歪んでいるかのような感覚を覚えた。
 俊夫は自分が命と金とを天秤にかけられたのだと知った。しかし心の中はひどく乾いていて恐怖心というものが麻痺していた。魂の一部が固まったままであり、そうなのかという諦めしか沸いてこなかったのだ。

 次の日、俊夫はあの公園に向かった。やることもなしにブランコに腰掛けていると再び猫がひょろりとしなやかな体を見せて近づいてくる。真っ黒な毛並みは野良なのか、それとも飼われている猫なのか判別がつかない。人に慣れていながら、どこかたくましさを持った猫を俊夫はうらやましく感じた。
 程なくして紺色のスーツのズボンが俊夫の目にとまった。光沢のある黒いバックを抱えていて、その角が日の光に反射している。
「なるべく怪しまれないようにしたいのです」
 もうすでに俊夫が飛び降りる手はずは整っているようだった。
「作業はどうなるんですか」
「用意してあります。事故だと思えるように準備しています。後日連絡いたしますので、どうぞ待っていてください」
 どうやってというのは聞けなかった。ただ黒猫が俊夫のそばまで寄ってきてニャアと鳴く。まさか連絡係がこの猫なのかと尋ねる前にスーツの男は姿を消していた。
「あら、あなたどうしたの?」
「今日は直帰したんだ。思ったより仕事が速く終わってね」
「あら、そう。でも晩御飯なにも用意していないのよ」
 十年以上連れ添った妻の言葉にどこかで俊夫を疑っていないだろうかと警戒しながら、またもや仕事をしてきたふりをする。そして俊夫は妻から通帳を見せてくれるように頼んだ。理由はローンの残りを知りたいからというもので適当にこじつけた。目的は通帳の場所を知ることにあった。いくつかの銀行と郵便局との通帳の場所を確認する。明日妻は昼間に何かの習い事にいくらしく家を留守にしているので、その間に真実を確認しなければならない。
 翌日になって俊夫は主婦や休み時間中のOLで込み合った銀行や郵便局を回って金が振り込まれているか確認した。すると実に巧みにそれこそ俊夫自身が計画的に貯金していたかのように定期的な額が入金されているのだ。この金の出所を誰も疑わないだろう。男が最初に言った五千万には届かなかったが、少なくとも俊夫が飛び降りたあとに直ぐに家族が困るような事態にはなっていないようだった。
 ふうと、ため息が出た。昨日、おとといの話ではなかったのだろうか。まるで知らない所で俊夫が飛び降りるための準備されていたのだろうかと遠い気持ちになる。そのような細工は知らないし、わかるはずもなかった。一瞬、自分に恨みを持っている人間が殺してくれるように依頼したのだろうかとも思ったが、それすらも思い当たるふしがない。いや、それは間違いだろう。人間誰しもが恨みを買って生きているのだ。誰からも憎まれたり嫌われない人間などいやしない。
 だったら俊夫一人の破滅を望む人間の誘いに乗ってしまった、拒否の時間もなく乗らされたことに抵抗しようという気も湧いてこなかった。自分は砂の塊だと俊夫は言い聞かせる。崩れて消えてしまう時がきたのだ。そうに違いない。だからどうしようということもなかった。家に帰れば妻がいる、息子がいる。明日行く当てはない。そんな人間がどうなるというのだろうか。
 俯いた俊夫の側を猫が通り過ぎた。あの猫かと一瞬だけ恐怖が走ったが、茶色のぶちだった。人間のことなどお構いなしに建物の隙間へと消えていく小さな体を目で追う。
 その猫と入れ違いになるように隙間から顔を覗かせたのは、あの黒い猫だった。
「残りの分は保険で支払われます。数年前に契約した話になっていますので、ご安心ください。追って日取りを連絡いたしますので」
 背後から声が掛かる。振り返るのが怖くて、革靴がアスファルトの道を踏む音だけを聞いた。勇気を振り絞って首を動かすと、灰色のスーツの後姿と車道の脇に止めてある車の扉がバタンと閉まるのが見えた。車がゆっくりと流れていく自動車の列に加わる。あの猫が現れた隙間には、もう何もなかった。
 その夜は妻と息子とに言葉を掛けようとして、俊夫は上手くいかなかった。息子とは話題が合わなくて迷惑そうな顔をされるだけで、妻も鬱陶しがられただけだった。
「二日後の正午に」
 同じように俊夫の行動を呼んでいたかのように黒猫がやってきて、スーツの男が期日を知らせた。それでもまだ遠い世界の出来事のようであった。もう引き返せない。そうわかっていてもどこか他人事のようで、人生を放棄するという実感が湧かなかった。私物にあふれた家を見ても、すべて妻に任せていたのだから、自分がどうこうするということもないだろうと俊夫は頭の中で決め付ける。
 仕事をするフリを放棄して、誰もいない家に帰ってきたが、この散らかった家とも分かれるのかと緩やかに思った。ずいぶんと俊夫の心は乾いているようで、やはり何の感慨も浮かんでこない。
 果たしてここは現実なのだろうか。まるで夢のようではないだろうか。
 誰かの冗談に突き合わされているのだろうか。そんな価値など、もう俊夫にはない。
 チクタクと時計の針の動く音が聞こえる。隣家の掃除機をかける音、赤ちゃんの鳴き声、工事の音、それらが俊夫を追い立てる。何をやっているのだと問い掛けてくる。
 ニャアと猫の鳴き声が聞こえた。あの黒猫なのだろうか、そうかもしれない。あの猫は俊夫を見張っているのだろう。そして何か異変を感じ取れば報告するのだ。そう想像したところでガチャリと家の鍵が開く音がした。
「あら、あなた会社は?」
「ああ、まあ、な」
「そうなの。もし動けるならお風呂掃除してくれない。その間に早めにご飯作っておきますから」
 妻は何も問わなかった。俊夫が言葉を濁しても気にした様子もなく、そのことに失望する部分があることを俊夫はおかしく思った。馴れ合った関係の妻との間に、自分でも知らない部分で愛情が芽生えていたのだ。それは上辺だけで持てはやされる優しいものでも粘着質なものでもなく、ひどくさっぱりとした体に染み付いた習慣や義務のようなものに近かった。それがおかしかった。
 自然と妻という存在を意識していたのだ。そのことにいまさらになって気が付く。
 まもなく学校から息子が帰ってきた。俊夫がいることに戸惑ったような表情になり、テレビの前に座りつつどこか居心地が悪そうにしている。
 ふと、俊夫は自分という存在が家族にとってイレギュラーなのかという気がしてきた。俊夫が失ったのは仕事だけではなく、この家での位置もまた同じかもしれないのだ。だとしたら男の提案は妥当で、やはりそれ以外の選択肢はないような気がする。
「ニャーーーア」
 喉の置くから搾り出すような猫の鳴き声が聞こえた。まるで赤ん坊の泣き声のようなそれは、はたしてあの黒猫のものなのだろうか。
「すごい鳴き声だな」
「いつもだよ」
 会話の糸口にと持ってきた言葉も息子には通じなかった。結局はテレビをつけたまま、二人の男が黙って距離を置いたまま座るという形で時間が経過していく。晩御飯ができるまでそうしていた。
 最後に残された一日は奇しくも休日だった。だから俊夫は布団の中でゆっくりとした朝を迎えるふりができる。「どこかにいかないか」という提案は妻と息子に一度却下されたが、正午前になるころには二人の気分も変わっていた。俊夫が妻の車を運転して、すこし遠くの大型ショッピングセンターに行く。特に買うものはなかったのだが、そこにあるレストランで昼食を取るのも悪くないだろうという話にいつのまにかなっていた。
 俊夫にとって最後で過ごす家族の時間である。休日なだけに人の数は多く、そして見て回るだけで時間が過ぎていった。息子の服を買ってやろうと思ったが、思いのほか高い値段に俊夫は驚いた。電化製品、本屋、音楽店、それから妻の化粧品、最後に食品売り場と移動しながら時間が過ぎていく。結局は帰り道はへとへとになりながら俊夫が運転する車に買ったばかりのCDを二人が聞く。それは何の変哲もない休日の姿だった。ただ俊夫の事情が違うことを、二人が知らないだけで、今まで何年も繰り返してきた休日の過ごし方であったのだ。
 車を車庫に入れ、玄関扉の前まで歩く。植木鉢のそばで座っているのは黒い毛並みの猫だった。
「ちょっと散歩してくるよ」
 俊夫の言葉に家族はうなづき、先に家の中に入る。猫が歩き出し、俊夫は跡を追った。
 ちょうど一メートルの間隔を保ちながら、猫が先導し俊夫を知らない場所へと導く。あの男の下だろうか、それとも別の場所だろうか。猫は住宅街を練り歩き、裏寂れた路地を進み、昭和が色濃く残るトタン屋根の通りを進み、そして最後に駅へとたどり着いた。ビジネスホテルと飲み屋の並ぶ通りには週末の活気はない。まるで眠りに入ったかのように、静かでさびしい風景だった。
 日が落ちて辺りが赤く染まる。その中を黒い尻尾を揺らしながら猫が進む。俊夫の足が止まっても猫はお構いなしに歩みを止めない。
 俊夫の足が止まったのには理由があった。店の塀に寄りかかる影を見たからだ。その姿は真っ黒で私服でありながら、漂っている空気はどんよりとしたものであった。表情は分からないけれども性別はわかる。男だ。そしてきっと俊夫と同じ部類の人間だ。途方にくれた空気をまとっている。
 もう猫の姿は消えていた。
 俊夫はきびすを返してきた道を引き返していった。道すがら影になって見えなかった、あのションボリとした人間の顔が自分のものになった。毎朝鏡の前で見たくなくても見ざるを得ない、疲れきった顔の冴えない男だ。
「長かったのね」
「ああ、駅の近くまで歩いてきたんだ」
「いい運動になったじゃない」
 特に妻は気にしていないようだった。そのことに俊夫はほっとしながら、頭の中で先ほど見た人間の姿が消えずに残っていた。

 そして当日になった。飛び降りる日だ。
 いつもどおりに出社するフリをして家を出ようとする俊夫に妻が昼食代を渡す。最近はすっかり忘れられていたのに、この日に限って持たせてもらえた。
 家の前には黒猫がいた。昨日と同じ道を通って駅まで歩く。正午まで時間をつぶさなければいけなかった。続々と駅の構内に入っていくスーツの男たちを見送り、俊夫はどうしようかと猫のほうを振り返る。黒猫は暢気にあくびしていた。
 駅に向かう群集の中に昨日見た人間の姿を確認して俊夫は立ち止まった。あの男の途方にくれた空気は昨日のままだった。俊夫と同じくスーツをまとっている。切符を買い、改札をとおっていく。その姿を眺めながら俊夫は彼がどこに向かうのかが気になった。
 振り返れば猫の姿は消えている。
 正午まで時間をつぶさなければいけない。
 俊夫は切符を買い――つい習慣で職場近くの駅までになり――改札をとおる。ニャアと遠くで猫の鳴き声が聞こえた気がした。
 スーツに身を包んだ人間に混じって男が俊夫がいる。行く場所がない人間が混じっていることに不思議な思いを抱いた。自分は偽者なのだ。けれどもこの中に混じってしまえば外からは分からないだろう。この中に入りたいと思っていたけれども、傍目には入っているように見えるのだろうか。そう思いながら俊夫は車両が限られた電車の中でつり革につかまってどうにか窓の外の景色を眺める。
 切符の区間のまま電車に乗っていると前の職場に行き着いてしまう。どうしようかと迷ったとき、あの男が降りるのが目に止まった。とっさに俊夫は後を追う。着いたのは今まで降りたこともない駅だった。
 あとをつけて駅から伸びる上り坂を歩いていく。通りには仏具店や服屋、貸し事務所などが並んでいた。車はまばらで、道を歩く人の数も少ない。角を曲がるとそこにあるのは職安だった。その中に男が入っていく。
 ニャオと背後で鳴き声がした。時計を確認すると正午前だった。
 猫は反対方向に歩いていく。男は建物の中に入った。田舎の職安の中には人の姿がたくさん見える。それだけ誰もが仕事を求めているということなのだろう。
 再び猫が鳴いた。それは俊夫を催促しているかのようである。ゆっくりと足音を立てずに猫が近づいてくる。俊夫を呼んでいるかのようであった。
 もう時間がきていた。
 飛び降りなければいけないのだ。でも何処から――?
 風が振いて俊夫は目をつむった。砂や小さな石が飛んできて軽い痛みを覚える。地方の田舎の町だから高い建物なんてなかった。せいぜいが4階建て止まり。だとすればどこから俊夫は飛び降りればいいのだろう。これから別の場所に行くのだろうか。目に近くのビルの屋上が飛び込んでくる。汚れた壁に布団が干してある。一階のテナントは何も入っていなかった。
 パンパンと布団をたたく音が響いた。ビルの管理人なのか、どこかのテナントの店員なのかわからないけれども、その姿が妻と重なる。
 俊夫が消えれば妻は楽になるのだろうか。金の問題は大丈夫だろうか、もし生き長らえればこれから先行く当てのない俊夫という負担を彼女は背負ってしまうのだろうか。息子にこんな父親の姿を見せていいのだろうか。
 俊夫は砂となって消えるのだ。そう思っていたし、逃れることはないのだと知っていた。しかし妻の姿が浮かんだ。昨日の息子の顔がよみがえった。どうしてもっと話しておかなかったのだろう。二人に沢山話したいことがあったのに、ただ仕事がなくなったのだと知らせたくなくて何もいえなかった。働いている時だって疲れて何も話せなかった。
 どうしてもっと時間を上手に使わなかったのだろう。
 今からでも使えるなら変えたい。
 そうだ、変えたいのだ。
 ニャアと猫が振りむいてなく。その腹には白い毛が混じっていた。黒猫ではなかったのだ。なにかの雑種か、とにかくも不吉さを暗示させる黒猫ではなかったのだ。黄色い瞳をニヤリと笑わせているかのように見える。はじめからこの猫は真っ黒ではなかったのかと俊夫は知る。
 俊夫の中にあるのは小さな衝動だった。その正体と、受け入れる痛みが心に突き刺す。
 このわずかな衝動に目を瞑ったら、それこそ俊夫は消えてしまうのだ。
 だから首を左右に振る。
 そして猫に背を向けて職安の中に掛けていった。
 俊夫が建物の中に入っていったのを確認すると猫はゆっくりと歩き出した。その方向は駅のほうであり、車道のそばにゆっくりと走ってきた車がとまる。助手席のドアが開けられると猫はぴょんと跳んで中に入り込んだ。
 それから車がどこに向かったのか、見たものは誰もいない。

おしまい