孤独な箱

 真っ黒な画面に向って、ひたすらキーを叩く。
 ディスプレイからは悪意が滲み出て、並んだ言葉もまた不快にさせるものだった。
 ここで負けたら終わりだ。ここで引き下がったら、当分は屈辱を背負って生きなければならない。
 ディスプレイの中では戦いは過熱している。しかし現実では有線放送から最近の人気曲が流れている。
 孤独な箱。その孤独さが現実を忘れさせてくれる。
 グルルルと腹が呻いて、ジャンクフードばかりと頬張ったツケが回ってきた。
 腹の中で暴れる不快感は、そのまま尻を目指して下りて来る。
 耐えろ。この一文だけで……。
 耐えてくれ!! 
 鼻を顰めれるような悪臭が立ち込めた。辛うじて、排泄物はまだ出ていない。エンターキーもそのままに、慌ててトイレに駆け込んだ。
 途端に眩しい光の目を細める。
 さっきまでの暗い箱とは違う。明るい空間、白い塗装で覆われた、鏡と観葉植物と、割引プランのチラシだけが色を持つ場所。
 しかし人の気配の無い、この空間もまた同じように孤独だった。
 便器にすわり、解放を待つ。個室に入れば、さっきの暗い部屋と同じように、孤独なのだ。
 明らかな異臭と開放感。ほっと息を吐き、水を流した。
 生物的な安心感が全身を満たす。その間だけは雑事に気をとられることも無い。
 便器からはみ出した尿は見て見ないフリをして、再び暗い箱に戻った。
 ひとまずの休息の間にディスプレイの向こう側では敵の姑息な勝利宣言が文字列を埋め尽くしている。
 勝っただと?勘違いするな。
 流れた文字を拾い、指摘と訂正させるべき箇所をあぶりだす。該当部分を見つけては、してやったりと、口元をほころばせた。
 そして、再び戦いを始めようと一文を投じた……。
 
 暗い箱からトイレへ。
 明るさだけが、現実を感じさせる空間へと何度も往復しながら、その度に腹に残る不快感に眉を顰めた。
 排泄は良い。ただ、におい過ぎだ。
 便器に腰をかけて思案する。次はどうするべきかと。
 トイレを出れば、再び胃を締め上げるような罵りあいの世界に戻らなければならない。
 あの世界では、すべての物事が嘲笑の対象となる。すべての物事がくだらなくなる。まるで宗教のような無価値主義に熱を上げて、理性的な感情論と、根拠の無いけなし合いの方法を吟味していた。
 そんなときだった。
「臭っ!」
 まだ若い男の声が私を現実に戻した。
「誰だよ、トイレでクソしやがってんの!?」
 ヤバイ。今、此処から出て行くことは出来ない。大便をしたと宣言するようなものだ。
 けれど、急がなければ、「負けを認めた」と決め付けられてしまう。
出るんだ。恥など捨てろ! 勝利を得るためだ。一時の恥など捨ててしまえ!! 
 チョロチョロと水の流れる音。ジッパー上がる音。そして蛇口の水をひねる音。床を踏む音が遠ざかってから、溜息を一つ吐いた。便器の水を流して、ズボンを履こうと伸ばした手を止める。
 もう少し便座に座って、孤独な箱に居座ることにした。
 ドアを開ける頃には、利用料金を精算しようと、頭の中で道が出来ていた。

 別に、勝つ必要なんて無いんだ。
 カレーに納豆を入れるかどうかの、話題だったのだから。実践して、腹を壊したなんて、名誉の負傷にしては格好がつかない。
 だから、この戦いは負けて当然だったのだ。
ディスプレイと向き合う暗い箱からでたら、現実が待っている。トイレから出ても、結局は現実が待っている。
 だから、ほんのちょっと。数分で良い。
 少しだけ、孤独な現実逃避を満喫していたかった。

おしまい