瞳のチャンネル

 黒兵衛の話をしようと思う。私の家族の話だ。
 うちは私とお父さんと黒兵衛の三人家族。黒兵衛は真っ黒な猫だった。お父さんは急がしそうで、お母さんはつい最近までいたけれども、今は居ない。どこか遠くに行ったのだとお父さんは教えてくれた。
 広くなったマンションの部屋でポツンと黒兵衛が残されている。私が学校から帰ってくると黒兵衛はいないけれども、夜になるとひっそりと帰ってくる。お父さんを待って晩御飯を食べるときも黒兵衛は一緒に居る。
 抱っこはあまりさせてくれない。それから甘えても来ない。友達の飼い猫が狩りの獲物を枕元に持って来てくれるという話を聞くけれども、そんなことは黒兵衛はしてくれなかった。たしかに瀕死のゴキブリやカマキリやバッタや、それから鳥なんかが目を開けた途端に広がっているよりはマシかもしれない。
 今は居ないお母さんが長いリボンを腰に巻いて黒兵衛の遊びのお供をしてくれるけれども、私が同じような事をしても相手にしてくれない。猫用のオモチャにも飽きて、どんどん新しい物を取り入れるハメになる。けれども黒兵衛は寄り添ってはくれないのだ。友達が習い事だ塾だと忙しい中、学童保育しか行く場所が無くて、ほんのちょっと寂しい気持ちで帰っても迎えてくれることは無いし、テレビを見ながら光沢のある黒い毛並みを撫でさせてくれることも無い。
 そういうことを許していたのはお母さんだけで、お父さんも私も黒兵衛にとっては家族にすら分類されていないのかもしれない。もしかしたらご飯を与えて、寝る場所を提供する存在程度の認識かもしれない。黒兵衛は愛想が無い。それが長いこと使って伝えたかったことなんだけれども、一体誰も居ない昼の日中を黒兵衛がどう過ごしているのか、私は知らなかった。風邪を引いたときも気が付けば居なくなっていて、どうやら部屋の外に出かけているらしい。だから一人っきりで風邪を治すために眠っていた。ただし風邪というのは引いている時は元気で、特に辛いとも感じないものなのだ。けれども熱は下がらない。家の中には誰も居なかった
 つい、最近まではお母さんが居た。風邪を引くと水作業で冷たくなった手を額に当ててくれて、それから熱が下がらないことに不満そうな声を出して、ちょっと遠くに住んでいるおばあちゃんに電話をする。私を見てくれるようにお願いするのだ。おばあちゃんの都合が悪い時は、おねえちゃんが来る。お母さんの妹で、最近はちっとも家に来てくれないし、お父さんが連絡を取ることも無くなった人だ。
 だから風邪を引いて寝込んでいるとき、黒兵衛が来たのは本人以外に私の様子を見てくれる存在が居なかったからかもしれない。黒兵衛の意思なのか、それとも母の言いつけなのか、それはわからない。
 ただ、目を開けたら黒兵衛の黄色の瞳が覗き込んでくる。それ以外には何もなかった。枕元に獲物もないので、ほっと安心してまた眠りに付いた。最後まで瞼の奥に居座ったのは黄色だった。
  
 ベランダにはお母さんが残したプランターが残っていた。お父さんに知られないようにこっそりと世話をするのが私の日課だった。朝起きると黒兵衛は居たり居なかったりする。お父さんはテレビと新聞とを交互に眺めて忙しそうだ。前はお母さんが担当だった、朝ご飯を用意してくれる。
 けれど私だってオムレツとか卵焼きとか味噌汁とか、そんな軽いものなら料理できる。キッチンに立つには足場が必要だけれども、料理らしいものはできるのだ。だから時々夕食を作っていることもある。カレーとシチューしかチャレンジしたことはないけれども。
 お母さんがプランターで育てていたハーブや小さな野菜を世話することは、お父さんには内緒の仕事だった。
 けれども日曜にお父さんがプランターどかそうとしていたので、私が「やめて」とお願いした。そのときのお父さんの顔はとても悲しそうだった。そしてベランダには黒兵衛がいた。プランターを守ろうと毛を逆立てて、お父さんを威嚇している。
「私が育ててるの。できたらお父さんに食べさせてあげるから」
 心のどこかでそう言葉をかけなければいけないような気がした。お父さんがプランターに手をつけないと判断したのか黒兵衛はヒラリとベランダから飛び降りていった。
 黒兵衛の黄色のひとみにベランダーのプランターがどう映ったのかは分からない。けれども初めて私たちに接触したのだ。あまり友好的な態度とは言えないものだった。
 そして私の趣味はガーデニングになった。ベランダでする程度だから対したことはできない。ついでに食材限定だけれども。
 数日がたってから、部屋からお母さんの私物が少しずつ消えていた。夜中におきだしたとき、黒兵衛がソファで尻尾を振っている。そしてダンボールにお母さんの荷物をしまうお父さんの背中が見えた。声をかけることができなくて、そっと自室に戻った私には、どうしてお母さんがいなくなったのかわからなかった。ただお父さんがさびしそうだから、私がいなくちゃいけないだと、それだけは分かった。黒兵衛がお父さんに対してどう思っているのかはわからないけれども、ベランダのプランターを守ったときのような対抗心はソファーの上で寛ぐ黒兵衛には見えなかった。だからそこまで悪いものではないような気がする。
 そして気が付けば家の中からお母さんの私物が消えていた。アルバムも、ハンディカメラも、家具にかけられていた家族の写真も消えていた。変わりに私の入学写真や、体育祭の写真が飾られている。
 お父さんがお母さんの痕跡を消そうとしていることは、子供の私にもわかる。意地になっているのか、ベランダで見せた悲しそうな顔からくるものなのか私にはわからない。
 お母さんにつながるすべてをお父さんは捨ててしまおうとしているのだろうか。
 だとしたら、最終的には黒兵衛と私も消えるのだ。行き着いた結論に戦慄が駆け上がる。自分が捨てられるなんて考えても見なかった。そして黒兵衛のことも同じだ。
 お父さんが何を考えているのかわからないけれども、このままお母さんの名残が消えて、私も黒兵衛も消えてしまうのは怖い。足場のない暗闇に放り込まれていくようで、どうすればいいのかわからなくなる。
 泣けばいいんだろうか、お父さんにしがみついて叫べばいいんだろうか、いいやそんな事ではお父さんが苦しむ。ベランダで見た顔が頭の中から離れない。私がそんな行動に出ればきっと同じ顔をお父さんをするんだろう。

 グルグルと思い悩むうちに学校は終わって、いつものように学童保育に向かう時間になる。道すがら視線を曲がり角に向けると、そこには黒兵衛が黙ってたたずんでいた。
 本当なら今日は学童保育に行かなければいけないのだ。そうしないとお父さんが心配する。お母さんがいたときは、お母さんも心配した。
 でも黒兵衛は金色の目でじっと私を見つめていた。その目が語りかけるのは猫の言葉だからわからない。だから勝手に解釈するしかない。子供の妄想癖で片付けてしまえるなら、黒兵衛は「誘っているように見えた」となるだろう。
「今日はおばちゃんが家にきてるから大丈夫です」と、学童保育のお迎えにきた他所の家のお母さんに言って、私は黒兵衛の方へと走っていった。私がたどり着くと黒兵衛は待っていたかのように、しなやかな体を動かして道を進んでいく。まるで案内しているようだった。いや、実際にそうなんだろう。何度もチラリと後ろを振り返って、私がついてきているのを確認するかのようだ。
 そうして黒兵衛が向かった先は、普段とおり慣れない道だった。
 少し寂れた佇まいの家が並んだ住宅地。同じように寂れた商店街とさほど遠くない距離にある。
 そして黒兵衛はなれた様子で一見のスーパーマーケットの入り口に止まった。金色の瞳が私を見上げていた。その目は語っている「中に入れ」と。
 財布をチェックしてお小遣いで安いお菓子なら買うことができる算段して中に足を踏み入れる。ちょうどタイムセール中だったのか混雑した店内では、割引商品のアナウンスが流れていた。肉や魚のコーナーではよくわからない歌が、そしてラジオなのか最近の歌が流れている。
 買い物カゴにどっさりと食材を積んだ人の列に混ざるのは気後れしたけれど、私は駄菓子を一つ選んで並ぶ。レジ係の人は忙しそうに手を動かしていた。めまぐるしい作業の中でどんどんと目の前の列が捌けていく。そして私の前の人になったとき、驚きが体中を駆け抜けた。
 レジ係の人はお母さんだった。
 前の人の清算が済んで、そして私の番になって、駄菓子一個だったから「テープでいいですか」と聞いてくる。そのときお母さんの顔もまた同じように驚きが広がっていた。
 私がそっと小銭を置くと、お母さんは決められた作業を開始する。清算はあっという間に終わってしまった。
 そしてお母さんとの再会もあっという間に終わってしまった。
 スーパーの外に出ると黒兵衛が待っていた。
 私の様子を見てこの猫が何を考えたのかはわからない、猫の考えることなんて人間には理解できないのだから。けれども私が何を思っているのは察したようだった。
 黒兵衛は光沢のある黒い背中を向けて、今までたどった道へと引き返す。立ち止まった私を振り返り、座り込んで待っているようだった。私が足を踏み出すのを。
 スーパーマーケットの明るい電飾と音楽がとても遠いもののように感じられた。
 最初の一歩は重かったけれども、次からはインプットされていたかのように足が前後に動いていく。
「うっうう……」
 グズグズと涙がこぼれた。ぬぐうと鼻水が長袖にくっつく。
 滲んだ視界で黒兵衛はいつものように振り替えることなく、前を進んでいた。黒兵衛が向かうのは私の家だろう。そこではお父さんが待っている。お父さんには今日のことは話さないつもりだ。黒兵衛は猫だから告げ口なんてできない。それが幸いだった。
 自然と涙が込み上げてきた。
 けれど何が悲しいのかわからなかった。お母さんに会えたことがうれしかった。お母さんと離せなかったがさびしかった。お母さんが知らない人に見えたのがつらかった。そしてもうお母さんには、会っていけないような予感がしていた。
 黒兵衛はきっとすべて知っているのだ。私よりも、お父さんよりも、そしてお母さんよりも。ずっとずっと家族のことを知っている。私たちは黒兵衛に寝る場所とご飯を提供しているけれど、きっと黒兵衛にとっては必要ないのかもしれない。私たちに付き合ってくれるのは黒兵衛の気まぐれなのだろう。
 見慣れた道に戻ると、私は黒兵衛に声をかけた。
 いままで前を歩いていた黒兵衛が立ち止まって、私のほうへと歩みを進めてくる。
「お願い、抱っこさせて」
 私の願いを叶えてくれるかのように黒兵衛はよりそってきた。体中をこすり合わせて、足の間に細いからだを入れたり、手に首を絡めたり。そして抱き上げようした瞬間、そっと体がすり抜けていった。
 その代わり、「ニャア」と一声鳴く。
 黒兵衛は何を言ったのだろう。やっぱり猫の言葉がわからない私には判断できない。
 また背中を向けて歩みを進め、後ろを振り返ってまた鳴く。私に「ついて来い」と催促しているのだ。目的地は私と黒兵衛の住処だ。

 お母さんはいなくなった。
 けれども黒兵衛は残ってくれた。金色の瞳で私を見上げながら……もしかしたら本当は観察しているだけなのかもしれないけれども、家路へといざなって行く。
 その日、変えるとお父さんに怒られた。かってに学童保育を抜け出したこと。そして心配したことも。お父さんの説教の後ろで黒兵衛は伸びをする。一人だけゆったりと我関せずといった様子が憎たらしくもある。
 けれども金色の瞳は私達親子を見つめているのだ。
 風邪になると黒兵衛は黙って私の顔を金色の瞳で覗き込む。
 お父さんが一人っきりでリビングにいるときも、その背中を金色の瞳で眺めている。
 黒兵衛の瞳には何が移っているのだろうか。まるでテレビのチャンネルのように、きっといろんな景色が、そして私たち親子の姿が映っているのだ。

 ベランダのプランターは目を出していた。中にはもう収穫してもよさそうなものもあった。その様子を黒兵衛は伸びをしている。
 プランターの中には植物の芽が顔を出している。やがて春になるだろう、春を告げる息吹の詰まった植物たちが果たして黒兵衛の目にどう映っているのか、それが少しだけ気になった。
 黒兵衛の目の中にどんなチャンネルが用意されているのか知っているなら、これから訪れる春と、芽吹いていく苗たちがどんな風に移っているのだろうかと。
 お父さんや私の中にある、心の苗がどんな形で生長しているのかも、もしかしたら黒兵衛なら見えているのかもしれない。そしてもし時間が解決してくれるなら、お母さんの中にもある苗もまたきっと芽吹いているはずだ。
 黒兵衛がいる限り、きっと私たちは大丈夫だ。だから、それまで金色の瞳のチャンネルから放送しつづけてほしい。

 プランターの苗も、心の中にある苗も。
 それが、黒兵衛の話。

おわり