ヒーローなんて定義があやふやで、どうにもこうにも正確さに欠けるのに、やたらと彼らが必要とされるのは、人間が社会を持った性だからだろうと、彼はため息をついた。
子供にとっては親がヒーローで、友達の中やクラスに学校にと少年期から青年期まで、現実のものにさえ事欠かない。しかし如何せん現実のヒーローは地味なので、それらを取り扱ったフィクションの世界に夢を抱く。
空を飛ぶヒーロー、変身するヒーロー、何の能力もないけれど生身で戦うヒーローに、警察官から消防士まで。非現実的な夢と、理想像とを目にしながら、やがて子どもたちは社会と適応していくのだろう。
かくいう自分だってそうだ。コミックのヒーローが受け入れられなくなっても、現実の仕事に就いている人たちが、時としてそれ相応の行動を見せた美談にあこがれたのだ。
勇気と称される現実に生きている人たちの活躍は、あらゆる種類のものであっても、心を奮い立たせることに間違いはない。
ヒーローは沢山いる。それはとても素敵なことだと、彼こと大きなヒーローは分かっている。
彼らは彼らの土俵で精いっぱいの勇気を見せる。努力は誇りになり、時に挫折を経験しながらも、やがて身近で偉大なヒーローになっていくのだろう。それは空を飛ぶ能力がなくても、天才的な頭脳がなくても、卓越した技術がなくても、若い年齢で飛びぬけて成熟していることでもない。
どこにでも小さなヒーローはいるのだ。それはとても素敵なことだ。
今日も沢山のヒーローが彼のもとにやってきた。彼はヒーロー達の協力なしに存在できない。
朝から深夜まで寝た時間もあいまいで、自分が何を言っているのさえおぼつかなくなりながら、彼がかろうじて分かっていることは、自分が大きなヒーローであるということなのだ。
それでは従僕ではないかと揶揄されることもある。
眠れないし、食事もそれほど口に入らないのに、体が丸いままなのに恥ずかしさを感じることもある。
いつも頭を占めているのは「これでいいのだろうか」という不安だけれども、そういうわけにはいかない。方向転換には沢山の労力が必要になり、被害をこうむるヒーロー達がいるからだ。
自分の立場がヒーローかどうかは不明で、けれども大多数の人々はそうだろうと思っている。
自分の心の声をそのまま口にすることはできないけれども、何をすべきかということも、実際にはどこに重点を置くかで変わってしまって、そして流動的な世の中では間違っているような気さえするのだ。
自分は正しい。ちっとも思っていないのに、人前ではそう振る舞う。
時には眠れない日が続いたこともあった。ずっと気持が落ち着かなくて、人の声すべてが煩わしくなることもある。もしかなうなら、耳も目も閉ざして、誰もいない空間に逃げてしまいたいと願うことのほうが多いかもしれない。
それでも彼はヒーローを招集して、小さなお願いをする。
彼らはプロフェッショナルで自分たちの仕事を全うする。達成感に酔いしれる様を見るだけで心地が良い。その一方で別のヒーロー達を招集して違うお願いをする。
その結果、達成感に酔いしれるヒーロー達が、やがて落胆し、自分に失望するかもしれないだろうと分かりつつ、そうするしかないのだ。
すべてを円満に解決できるたった一人のヒーローはいない。
けれども自分が世間で大きなヒーローだと思われるようになって初めて知ったことがある。
それは子供時代に夢想したヒーロー達が実在するということ。
あまり大きな活躍はできない。彼らは存在しないというのが、社会のルールだから。
彼らは大きな活躍はできない。自然を一晩で変えてしまうだとか、新幹線を止めるだとか、一人で戦場を鎮めるなんてことはできない。
小さな、小さな活躍がせいぜいだ。
居なくなった人や生きものの声を聞くことができるもの、ほんの少し未来に起きるささやかな出来事を予知できるもの、手のひら一つで病を和らげることができるもの。
子供のころに憧れた世界は、確かに胡散臭い形ではあったが存在している。それがヒーローになって初めて得た喜びだった。
彼は自分がヒーローでないことは分かっていた。世間が自分をそう呼ぶのは、彼が座る椅子に対してであって、彼自身にではない。そうあるべきだと望まれているだけなのだ。
責任をと詰め寄られても間違いかどうかの判断はできない。
すべてにおいて公正などとは無理な話だ。
そして誰もが心から望む解決策がないのも事実。
路頭に迷い、自分を見失ってしまったヒーロー達をどうするんだ。この前あのヒーロー達を使ってやったことは間違いではないのか。そう詰め寄られても答えを返すことはできない。
自分は眠れないヒーローでいい。自分の戦場はもしかしたら眠気の訪れない睡眠時なのかもしれない。
そう思いながら彼は目を閉じた。
本当は自分がヒーローでないことを知りながら。
それはよくいる大きなヒーローの一つの姿かもしれない。
おしまい