運ぶもの

 命を伝えるのが役目だった。
 果たして自分の運んでいるものが魂のなのか、命なのか、それすらもハルには分からなかったけれども、母の胎の内に宿る、もしくは種子の奥で眠る、ただの物質でしかないものが生命として目覚めるのにそれが必要なのだ。
 ハルに与えられたのは山間の小さな集落。数百人前後の人間が生まれては死んでいく、そんな小さな村だった。
 そっと集落の側の草原に降り立つと、そびえたつ岩山に囲まれたその村を見下ろすことが出来た。
 今日、運ぶ命は無い。
 けれども、送る命ならある。ハルの役目ではなくて、それは冥界の仕事なのだけれども自分が運んだ命だ。見送るぐらいはしてやりたかった。
 草原を吹き抜ける風に湿った、どこかカビくさい臭いが混じり、雲が光をさえぎる。
 ほんの僅かに薄暗くなった草原に、どこからともなく黒装束の仮面の者達が現れて、草を踏み分けることもなく村へと進んでいく。
 何百、何千回と見慣れた光景ではあったけれども、やはり悪寒を感じずに入られなかった。彼らは冥界の死鬼だ。仮面の奥にあるのは腐った死者の顔だと聞く。彼らの真実の顔を見ることが出来るのは、死ぬものだけ。だから本当の事は分からない。
 魂の終着地へと迎えにくる、彼らもまたハルと同じように役目を与えられた存在だった。
 ビュウと風が吹いて、村から一人の仮面の人間が出てきた。冥界の死鬼と異なり、人間の衣装をまとっている。
 まだ幼い、寝巻のままの姿だ。けれど顔は仮面に隠れて見えない。ああ、あれはハルが8年前に運んだ命だった。今回送られるのは、あの魂なのだろう。村から出てきた人間を死鬼たちはぐるりと囲んだ。
 仮面の人間が一度、村を振り返る。ゴオオウと風が草原に吹き荒れて、ハルは目を閉じた。
 目を開けたときには草原には光が差し、青空が取り戻されている。けれど死鬼たちの姿が無い。
 そして、村から女の泣き声が響くのをハルは遠くに聞いた。
 今は泣けばいい、とハルは思った。
 泣いて、心の中の悲しみを出してしまえばいい。
 きっと近いうちに、貴女の元に命を運ぶから。と。

 ハルは小さな集落を任されていた。
 そこに命をはぐくむことがハルの役目だ。山羊や牛や、花や虫や様々な命を運ぶことが役目だったが、人間だけは勝手が違った。ハルが立ち寄るだけで人間以外の生命の元には魂が導かれていくのに、人間だけはハルがわざわざ母親の元に出向かなければいけない。
 人間以外の生命たちはハルに話しかけて、姿を見ることが出来るのに、人間だけはハルの存在に気付かない。
 何千、何万回と命を運び、彼らが冥界へと旅立つのを見送る。
 それがハルの仕事だ。人間には知覚すらされない。冥界の住人は恐れられても、ハルには誰も気がつかない。知る事もないだろう。それでも今日もハルはその村へと向かう。新たな命を届けるために、そして終わりを迎えた命を見送るために。
 それこそがハルが存在する目的であり、指名であった。否、正しくは息をするのと等しい行為であったのだ。その村に毎日のように訪れるのは、命を届けるため。人だけでなくあらゆる生命の器に宿るものを届けるため。寝て、食って、排泄をして、そして番を見つけ、命を食い、命を繋ぎ、自らもまた糧となる。その循環から切り離された存在であるハルはただ見つづけていた。
 集落の上に焼けた鉄と炎が降り注ぐ間も、生き残ったものが泥水をすすり、黒焦げの人肉を食するさまを、そして冥界のものが迎えにくるまでの間に、残り少ない仲間同士で命を散らしあうさまを。すべてをハルは見つづけた。
 落ちた鉄の塊が酸化し、土がこびりつく。風化と植物の侵食により緑に覆われても、この集落に命は満ちている。
 時折人が訪れることはあった。
 通り過ぎるものもいれば、冥界からの迎えが来るまで留まるものもいる。とうに荒れ果てた畑の存在など気づかずに、新しく土を掘り起こし、生きるために種をまく。火薬の匂いのする筒を手に遠出をすることもあった。そんな者たちは一人きりで来ることもあれば、数人であることも会った。村を去るもの、残るもの、命を生み出すもの。しかしほんの数十年で人の姿は消えてしまう。
 だがハルの役目は終わりはしない。
 かつて集落を焼き尽くした鉄の塊すら土に還り、取り囲んでいた岩山も形を変えたころだっただろうか。
 杖を突いた、みすぼらしい男が一人訪れた。男だから人間の命を運ぶ必要はない。
 男は杖を一時も離さなかった。鼻が利くらしくクンクンと周囲の匂いを嗅ぐ癖があるようだ。そしてめったに言葉を発することもない。
 与えられたハルの領域、それはかつて集落と呼ばれた場所に生息するすべてのものに命を運ぶことだ。その生活の中で男の姿はどんどんと小さくなっていく。やがて眠る時間が長くなり、何日も食事を採らなくなったころであっただろうか。
 排泄物から新たな命が芽生え、男の体内でもまた沢山の魂が死んでは生まれていく。男の周りはたくさんの生命にあふれていた。だからハルは男のそばに近づく。今まで集落を訪れた者すべてに同じようなことをしていのだから、特に違いなどない。
 口から漏れ出る匂いは、一部の生命が喜び、そして人ならば厭うであろうものである。皺だらけの手にはまだら模様が浮かび、そして体の内部が溶けたり固まったりと、せわしなく小さな生命たちが動いている。息切れのなか男の目は白い膜で覆われていた。それが目の見えない証拠なのだと過去の記憶からハルは判断する。
 男の周りにも体内にも命はあふれていた。男本人は終わりを迎えている。
 突如としてヒュウヒュウと喉を鳴らして男は震える手を動かす。
 言葉は聞き取れなかった。しかし男の目がハルの姿を捉えていた事は理解できた。かすれた呼吸音の中で何を呟いたのかハルには想像できない。すぐに冥界の者達が迎えに来たが、ハルは男に見つめられたときから一歩も動くことができなかった。
 男の体にハエが蛆がたかり、肉を鼠が喰らい、そして命のない器が沢山ハルに運んでもらうのを待っている。
 人でありながらハルのことが見えたのだろうか。
 あまたの生命の苗床となった男に尋ねることは無理な話だ。
 
 命を運ぶのがハルの役目だ。
 人のいなくなった集落跡に今でも届ける。しかし気まぐれのように人はこの場所にたどり着き終わりを迎えていく。
 かつてのように家々が立ち並ぶわけでもなく、険しい斜面に沿って農地が、遠く離れた場所まで放牧しに向かう者ももういない。
 それでもハルは今日もこの場所に向かう。数多くの器が命を届けられるのを待っている。そして新たな命の糧となっていく。それはハルがこの地に来るようになってから変わらずに続いていることなのだから。
 だから今日もハルはこの地を訪れるのだ。命を運ぶために。

終わり

 以前、WEB拍手のお礼として掲載していた小話に追記したものです。