白い悪魔の贈り物

 木戸家の食卓は重苦しい空気に包まれていた。テレビから聞こえる賑やかな笑い声も遠いものとなっている。席につく家人の誰もがうつむき、どうしてこんな事態に陥ってしまったのかと後悔しているのであった。
 話は一ヶ月前にさかのぼる。
 少子化の昨今に珍しく、小・中・高・専門学校生の子供を抱える木戸家は総勢7名から構成される。かつては犬猫、祖父祖母、叔父叔母らが同居していたのだが、三分の二は寿命を全うし、残りは仕事に合わせて家を出て行った。
 そんな木戸家の思い出を包んだ、ごく一般的な二階建て住宅の食卓に家人が揃うことは珍しい。仕事に追われる父親や、バイトやら友達付き合いやらで家を留守にしがちな長男と長女、それから思春期の何かしらを抱えているのか自室に篭りがちな次女らの半家庭的行動によるものである。
 残りの家族――特に母親にとって不満というものはなくなっていた。いつでも火の車の木戸家の家計を支えるためにはパートと子育ての両立で手一杯だったからである。そして時間に対し止まってくれだの、遡ってくれなど、人々が抱く希望を無視して、平等に過ぎ行く性質が子供たちを否応なく成長させていた。
 それでもクリスマスイブの日に家にいるだろう面子ぐらいは母親の心得ている。日ごろ利用しているスーパーでケーキを注文した。
 それが一ヶ月前の出来事である。
 ほぼ三週間を経てなお、木戸家の面々はクリスマスイブの日に不幸に見舞われることなど、想像だにせずに平穏な毎日を過ごしていた。異変はその時から忍び寄っていたのだが、誰一人として気づかないまま12月24日が始まったのである。

 正午、冬休みに入った子供たちは、各々遊びにいき、また父親も母親も働きに出ていたので木戸家は静かである。
 最初に帰ってきたのが果たして次男だったのか、三男だったのか、ともかくも二人とも一旦家に戻ってきたものの、しばらくたってから共通の友達であり親戚づきあいのある知り合いからの誘いにより再び家をでる。無人の木戸家にヒタヒタと恐怖は近づいていた。
 母親が帰宅したときには木戸家に他の住人の気配さえ感じられなかった。
 かねてより注文していたケーキを冷蔵庫に仕舞い、家族からのメールをチェックする。そこには次男と三男がお世話になっている知人宅からのものもあった。気の知れた仲だったため、晩餐とまではいかない夕食の準備が終わるまで子供預かってもらうよう話がまとまる。そして家事に勤しむ母親をよそに次女が帰宅した。

 彼女もまた手土産を持っていた。真っ白な四角い箱には取っ手がついており、セロハン部分から少しだけ中が見えるようになっている。まごうことなきケーキである。
 淡々と次女は母親を無視して冷蔵庫にケーキをしまうが、そこで自分がミスを犯してしまったことに気づくのであった。日ごとから家族とのスキンシップをとらず、特に両親とは距離を置いていたせいか、母親がクリスマスケーキを用意しているなど考えてもいなかったのである。しばらく悩んだあと、今回持ち帰ったケーキが自分一人でも二、三日の間に食べられる量であろうと見当をつけて自室に閉じこもった。
 本来ケーキを持ち帰るつもりなどなかったのだが、友人宅で一緒に作ったスポンジ生地のなれの果てがこの生クリームで完全武装した洋菓子であった。スポンジを焼くまでは楽しかったが、その後が面倒だったので次女はケーキ作りへの興味を失い、自分が普段没頭する趣味の世界へと逃避した。
 その時点で木戸家の冷蔵庫の中を知るものは誰一人としていなかったのである。
 次女の靴を見て母親が帰宅を知ったのは、次男と三男を迎えに行こうとしたときである。どっぷりと日も暮れて、人様の家に長居するには迷惑だろう時間に差し掛かっている。慌ててメールで子供を預かってもらった先に連絡を入れ、オンボロの軽自動車に乗り込んだのであった。

 本来、コンパで今日一日戻ってくることのなかった長女が帰宅したのは、母親が家を出てしばらく経ってからのことだった。あまり体調が優れず、もとより酒が苦手だった長女はこれ幸いと乾杯が終わってすぐに帰ったのだった。
本来なら二次会のカラオケで思う存分に歌いたかったのだが、のどに異物感と痛みを感じ、甘いものを欲していた。奇しくも今日はスーパーからパン屋にファーストフード店まで、クリスマスという行事に勝負をかける日である。
 スポンジ生地の中にババロアが隠れた生クリームケーキに、喉の調子の悪い彼女が惹かれたとしても罪はないだろう。清算の際に長女らしさを出して、大きめのサイズを手に家路へとついたのだった。

 母親は古い軽自動車特有の食欲を奪う臭いにうんざりしながらも、どうするものかと思案していた。二人の子供を預かった先のママ友さんが、お菓子作りを趣味にしているということをなぜ忘れていたのかと、この時になってわずかに悔いてはいたものの、彼女の腕は確かなものだったので食べ盛りの子供たちだけでどうにかなるだろうと楽観視する。
 二人分用意された大皿にラップに包まれた白い物体が二つ。キリスト教圏とは異なり菓子メーカー起源のケーキは表面の白さとは裏腹に悪意を隠していた。

 母親の帰宅とともに木戸家はようやく家として機動し始めたといっていい。それは煩い二人の子供によるものでもあったし、食卓の準備が整ったこともあった。長女はテーブルの上を見て気まずい思いに囚われた、次女はとりあえず自分は悪くないと保身に走った、母親は子供たちに命運を託すしかなかったのだが、残りの次男と三男は敵の恐ろしさを知らなかったのである。
 最初はテレビの力を借りて談笑しつつも晩御飯を平らげ、ケーキをも登頂していった木戸家の面々であったが、道半ばにして白い悪魔の存在を知る。生クリームである。
 フルーツの酸味は生クリームの凶悪さを覆い隠すのに役立ったのだが、砂糖で煮たものに至ってはスポンジの周りを湿らせ、その部分だけ密度を増す悪の手先と成り下がったものもある。チキンの代わりにと大目に作っておいた唐揚げとの相乗効果で、生クリームは確実に胃を圧迫していったのだ。
「仕方がない」
 そう母親は決意し、台所から焼酎を一瓶もってくる。この場で年齢的に許されるのは彼女と長女のみなので、他の子供たちには真似しないよう言いつけてから、お湯で割ったものを一気に飲み干した。本来酒の席から逃げるために家に戻った長女であったが、母親という絶対支配者の前では体調不良など無視されて然るべきものであった。
「クリームパンに焼酎は合う(特に麦)」とは母親の持論である。
 粉製品なのだから同じという究極の超結論に達し、五体の悪魔を攻略するための突破口としたのである。先陣を切る焼酎は残りわずかであったため、あっという間に壊滅してしまった。新たな物資の補給が必要である。
 母親はこの場にいない長男にコンビニでカップ焼酎を買ってくるようメールを送り、食卓にうなだれる。
「今更だけど賞味期限の遅いヤツは後に回しとけば良かったんじゃない」
 そんな次女の言葉が母親と長女の努力を砕いたのだった。

 バイトが終わり長男が帰ったとき、食卓は重苦しい雰囲気に満ちていた。そして普段は見かけない父親の姿を見つけ、人数分そろった白い固体を目にした時、自分の右手に下がったものが完全な間違いであることを悟ったのだった。

 長男の到着より前、普段誰よりも遅く家に入る父親が珍しく帰宅した。部下から貰った手土産はケーキだったのだか、普段から家族の輪に入れないと疎外感を感じる彼を、より一層寂しい気持ちにさせる代物でしかない。
 本来ケーキを手に帰る予定などなかったのだ。今日もだろうと悲観していた業務が珍しくスムーズに終わり、部署で孤独を感じつつあった彼に優しい部下がケーキを渡してくれたのである。
 もっとも世代の違う父親を置いて、飲み会の話が水面下で行われていたことなど知る由もない。部下たちからサイフ扱いさえしてもらえないまま、彼らが親睦を深めているなど思いもせずに、いつもより軽やかな気持ちで帰途についたのである。
 だが、食卓には悪魔が五体もいた。いや自分が持ち帰ったものをあわせると六体だ。思春期真っ只中の次女の視線がとても非難めいたもので、それだけで父親の心は血を流しそうであった。自分を迎える家族の声が暗い、自分に(正しくは利き手に)集中する視線がとても痛い。
 ああ、ここはやはり自分の居場所ではないのかと項垂れつつも、限りなく戦意を喪失した状態で父親も食卓につく。それでもケーキを手掴みでとろうとする次男や三男に、「食べ物で遊ばない」と叱り付けるのは、彼が空気を読めないからではなく、食べ残しは悪いことだと教育されたからに他ならない。
(世界には恵まれない子供たちがいるんだ。食べたくても食べれない人たちがいるんだ。それにくらべて、こんなに小麦粉に囲まれた自分たちは、なんて贅沢なんだろう)
 そう心に言い聞かせて重たい一口をかみ締める。それは味覚にも心にも美味しくない一口であった。たとえ父親が必死に胃袋にケーキを送り込んだからといって、世界の飢餓が救われるわけではない。その矛盾に気遣いまま父親は先ほど頭の中にめぐった考えを声にだして、さらに家族から白けた視線を向けられるのであった。
 しかし食べるつもりもないのに、ケーキを粘土代わりにしようとする行為だけは、母親も同意したので、共同戦線を張ることが許されたのだった。

 そして長男が帰宅し、人数分のケーキが揃う。まるで合わせるかのように生クリームでデコレーションされた、ごく普通のケーキである。本来は取り合いになるであろうサンタの砂糖菓子やチョコレートの家さえも侘しい佇まいを見せている。
「何か別のものを食べよう」
 買ったケーキは消費期限が今日か明日までである。正しくは母親以外のケーキはすべて今日までの老体だったのである。手作りのケーキは果たして何日まで持つのかわからないが、子供たちのことを考えてアルコール類を抜いてあるだろうから、長持ちはしないだろう。さらに生クリームにフルーツだ。時間を縛る材料はそろっている。
 父親と長男も参加した焼酎作戦も戦況を変えるまでには至らず、一進一退を繰り返していた。
「ピザとかどうよ、一番小さいサイズで辛いヤツ」
 長男の提案に一同はどよめきたった。しかし配達ピザ屋のメニューを開いてうなだれる結果になる。
 木戸家の住む地域では、近所どころか一山も二山も越えなければ全国規模のチェーン店は存在しないのである。唯一の配達ピザの店はピザよりもお好み焼きの方がおいしく、サイドメニューにパスタを頼めば、太麺の焼きそばのようなカルボナーラが届き、残りは何故か胃もたれする揚げ物かカチカチに固まったアイスしかない。
「ラーメンはどうだ、酒飲んだあとはラーメン食べたくなるだろう。粉ものなんだから同じだろう」
 すでに正常な判断力を失っている父親が危うい言葉を吐いたが、それは子供たちから無視されるという正しい処置を受けた。
「スパイスだ」
 そして生クリームに七味唐辛子をかける次女を見習うように、長男が最期の作戦を立てたのであった。

 古来より人の歴史に深くかかわってきたスパイスだが、ケーキとの相性など最初からなかった。
「俺、今なら大航海時代の気持ちがわかる」
「ああうん、コショーは貴重品だからね。スパイスをめぐって争いも起きたもんだしな」
 長男と父親は二口、三口までは順調にほおばりつつも、やはり限界を迎えて次の香辛料へと手を伸ばす。はたして父親が子供たちを叱った食べ物で遊ばない行為と、どれほど違いがあるのか、そんなことに気づきもせずに父親はキムチだソースだメンマだと、ケーキへの冒涜を続けていた。
 次女はふと昔読んだ宇宙航海に必要なスパイスをめぐって争いが起きるSF小説を思い出した。
 もう戦線離脱したかに見えた母親と長女が再び復帰し、そしてまた手を止めてはとりとめもない雑談を繰り返す光景や、食事中に携帯ゲーム機で遊ぶという無作法を止める人間がいなくなって無法状態になった下の二人などを見回しながら、いつ部屋に戻れるのだろうかと彼女にしては気を使った考えをめぐらさせた。
 聖なる夜に木戸家に降臨したのは神の子ではなく、白い七体のケーキだった。サンタクロースの起源であろう聖ニコラウスもオーディンも木戸家に施しもは必要ないだろう。
 しかしケーキという悪魔の前に奇しくも、普段集まることのない木戸家の面々が集合し、食卓を囲んでいるのである。もはや食事とはかけ離れた行為になってしまっているが、久しぶりのことかもしれない。
 ならばすでに木戸家は得るものを貰っているのだろう。そう自分では冷めた女子中学生を気取っている次女は、夢みがちな思いにとらわれたのだった。

 そしてクリスマス当日、サンタが本当に木戸家に渡したのは胃もたれや下痢であったのだと全員が確信するに至ったのである。

おしまい