勇者に指名された朝

「突然ですが、私は妖精です。あなたは今から魔王を倒しに行ってください」
 そう言って現れた羽虫に俺は殺虫剤を浴びせた。
「タラララッタラ〜♪ 勇者は毒の霧を覚え……ゲフッゴフゴフ。流石選ばれた勇者です。冒険わずか数秒で魔法を覚えるとは……」
 ぐったりしながら、というよりは吐血しながら羽虫は親指を立ててウィンクをする。殺虫剤が利かないならば、隔離しかない。近くのビニール袋に羽虫を閉じ込めた。
「……う、これは毎ターン体力を奪うステータス異常攻撃、しかも沈黙効果が……」
 黙る様子のない羽虫にビニール袋を何枚も重ねて、ゴミ箱に叩き込んだ。ビニール袋の上に捨てる予定だった雑誌をぶちこむ。
 ようやく静かになったと一息をついた。今日は大切な日なのだ。変な羽虫の登場で張り積めた緊張感が消えてしまったが、再び心を静めようと深呼吸をした。
 ふうと息を吐き、吸い込む。
「ハイ、吸ってー吐いてー。精神統一は鍛練の基本です」
 ブホっと息が乱された。目の前には先ほど封印したばかりの羽虫が浮いていた。
 手のひらサイズの体にコスプレチックなカラフルな色使いのメルヘン衣装、背中には小刻みに揺れる半透明の羽。まるで妖精と言わんばかりの出で立ちだ。しかしまっさらな素足には黒く太い剛毛が生え、腹がタプンと膨らんでいる。そして胸に膨らみは……垂れた脂肪というなのものならばあるが、女性ものの水着に近い装束からは縁遠いであろう脇毛もついていた。動く度に二の腕や太股の肉が波打つ。
 それが目の前に現れた自称妖精の姿だった。殺虫剤を吹き付けた気持ちを察してほしい。
 これはストレスから来た幻覚なのだろう。そうだ連絡を待っているのだ。
「あ、シャイな方ですか? それともクールな無口キャラを気取っているつもりですか?
ご自分の容姿を確認してくださいよ、貴方は精々メンバー全員が揃うまでの数合わせ的な体力系キャラの顔ですよ」
 一気に捲し立てる羽虫を本で叩き落とす。
 羽虫だって女性ものの水着にフリルが付いた衣装を身に纏っているくせに、ただのオッサンだ。青髭やたるんだ頬、薄くなりバーコードと貸した頭部など、どこを切り取っても立派な不細工なオヤジなのだ。
 ついに俺の頭は危ない領域に踏み込んでしまったのかと危機感が募る。いや、まだ大丈夫だ、引き返せるはずだ。少なくとも目の前のオッサン羽虫を排除すれば、俺の正常な精神は戻ってくるだろう。
 そう確信し、丸めた新聞紙を構えた。
「ストップ、ストップ。私は妖精です。本物です。その証拠に姿を消して見せますから」
 そう言うと羽虫の姿が目の前から掻き消えた。ぐるりと部屋中を見回してもいやでも目に映るカラフルな色が入ってこない。
 いったい何事かと構えると、耳元でふうっと生暖かい風が吹く。ほのかに漂ってくるオヤジ臭から、あの羽虫の仕業を判断し新聞紙を振り回すが、あたったのは電灯のヒモだけであった。
「もう手出しができませんよ。黙って私の話を聞くしかありません。わかったら、無駄な攻撃を止めるんですね」
 いったい、なんの災厄だというのか。高らかに羽虫の邪悪な声が部屋の中に響いた。
「とりあえず魔王を倒しにいってください。仲間の方々は用意しましたので、じきにこちらに到着します」 
 ジリリリと玄関のベルがなる。
「こんにちわー。僧侶の山田です」
 もう来たのか。しかも自分の職業決めやがる。絶対にドアをあけるもんか、この外には頭がおかしい人間が居るのだ。
「すみませーん。居るんでしょう勇者さん。はやく魔王を倒しに行きましょうよ。僕、いざとなったらモンクになるんで」
 無駄に職業の幅広いな、山田よ。どうでもいいが俺の名前は勇者じゃない。それにこんなアパートの外で恥かしいセリフを叫ばないで欲しい。
「あ、何。まだ勇者目覚めてないの」
「どうも、僧侶の山田です」
「自分、踊り子の高橋です。盗賊だったんですけど、さっき道の端で職業変えてきたんで、まだなんのスキルもないんです」
 ドアの外でなんだかコアな会話が繰り広げられているよ。そうだこれはオンラインRPGのオフ会だ。俺の部屋の前でオフ会やってるんだよ。俺は一度もプレイしたことがないが、きっとオンラインRPGにはこんな魔力があるんだ。てか、「魔」とか使っちゃダメじゃないか、そんな言葉使ってるって事は。
「もう、すっかり勇者の自覚が出てきてますね」
 ギヒャアアア。耳元でオヤジ妖精が生臭い息と共に俺の頭の声の続きを囁きやがった。気持ち悪い。ものっすごく臭いし、生暖かいし、ジョリジョリ首に当たっているのってスネ毛か? どっちにしろ気持ち悪い。
「オフ会ならファミレスでお願いします!」
 決死の俺の叫び声はドアの向こうの変人共に聞こえたのであろうか。とにかくここから去ってほしい、ついでに目に見えないオヤジ妖精も連れて行ってほしい。
「すみません、勇者さーん。名前長すぎてちょっと呼びにくいんで、オフ君とかでいいですか?」
「や、オフ君はないでしょう。街中で浮きますって」
「そうですね。すみません、盗賊さん」
「いやいや、職業じゃなくて名前でいいんで。山田さん。どうもよろしくお願いします」
 ドアの前のやつらには人間語が通じていないようだった。そのままドーモドーモと挨拶を続けている。
「ホラ、お客さんを待たせちゃいけないでしょう。いいかげん部屋に入れてあげてもいいんじゃないですか」
 耳元ではオッサン妖精がささやく。冗談じゃない、こんな変人を入れた何が起こるか想像もつかない。かと言ってアパートの前でコアなゲーム談義を繰り広げられるのも困る。どうしたらいいんだ。
 その時だった。
「何、もしかして皆さん植木のパーティーのメンバーですか?」
 聞きなれた声だった。あろうことが奴が変人どもの知り合いだったとはという衝撃が体の中を駆け巡る。それとともに俺は致命的な過ちを犯していたことに気づいた。なぜならばドアの前にいるのは変人だけではない。俺の名前を知るものであり、そして俺の唯一守られていた絶対防衛線を破ることの出来る一騎当選の強兵なのである。
「植木さーん、今月と先月と先々月の家賃がたまってるんですけど。あと引越しの準備本当にしてるんですか? 内定とれたら取り掛かるって言ってましたけど、あなた何年大学入ってるんですか。最近の新入生は会社で職業訓練受ける傍ら単位もオールオッケイだというのに、貴方なにやってるんですか」
 あああ、現実という容赦のない言葉が俺の心に突き刺さる。もう就職氷河期なんて言葉は過去の遺物だ。わかってるさ、だから俺は今日のこの日が大切だったんだ。このままじゃ、まるでダメな若者(いや、若者だって主張したい)のまま、後先の見えない人生を突っ走っていくしかない。だからこそ、今日だけは、この日だけは大切だったんだ。
 それなのに、ドアの前には変人が二人、そして俺の名目だけの不可侵条約をいとも簡単に打ち破ることができる歴戦の勇者、またの名を大家という現実の世界で抗うことのない人間が立ちはだかっている。
「待ってください、今日会社から電話がくるんです」
 そう、内定の決まった会社からの電話がくるのだ。だからこそ電話の前に一日固まって過ごす、それが本来のスケジュールだったのだ。オヤジ妖精が現れることがなかったら、俺のダメだった人生が少しでも前に進めるかもしれないという希望が持てるかもしれなかったじゃないか。
 だというのに、現実とはかくも無常なものなのだろうか。大家はなんの躊躇いもなくドアのかぎを開け、見知らぬ変人二人を招き入れた。俺に目で茶を出せと促し、そして唯一の接客スペースであるコタツ兼夏場にはただのテーブルに座れと侵入者二人に指図する。この中で主導権を握っているのは紛れもなく大家であった。
「単刀直入に言おう。われわれは植木くんのパーティである。各種自己紹介はそのうち場の空気が和んだら始めるとして、今更カミングアウトする必要もないと思うが、私の職業は弓使いだ。若干呪術をかじった事があるので、ステータス異常系の魔法を使うことができる」
 あああ、なんだ、このRPG前提の会話は。オンラインの方はサッパリだが、昔懐かしいプレステ関連のゲームならプレイしたことがある。多分きっと職業を変えつつ、魔法とか特技とか覚えるようなゲームの類なのだろう。
 それでオヤジ妖精の言った「魔王を倒す」というのが目的なのだろう。
 ありえない。この現実世界でそんな話はあるはずがない。まさか、これは中学生向けライトノベル関連の世界の……いや、どっちに転んでも平穏かつ常識に満ちた現実世界では通用しない話であることは間違いない。
 いったいこの変人どもをどうしたらいいのだろう。俺には解決策が見つからない。なんていったってオヤジ妖精を含め全員が電波を受信しているであろう、危ない人々だからである。自然と俺の位置は部屋の隅へと移動していく。
 勝手に話を切り出しておいて大家さんは他のメンバーとまったく分からない会話を開始していた。お互いの能力やこれまでの経歴を語り合うことに熱中しているようである。
 俺に何が起きたというのだ。というよりも俺がいったい何をしたというのだ。
 その問いに答えるべき存在は姿を消している。語りかけることすらも放棄したのか、気配すら、ほのかに香るオヤジ臭により存在は確認されるのだが、こちらから相手に接触するほかないのだろう。
「魔王を倒すって一体どういうことだよ」
「知らないんですか、植木さん。魔王がいるかはともかく、僕らみたいにパーティー組んだ連中が潰し合った先に魔王がやってきてバトルする……というのが僕が聞いた話です」
 僧侶山田の言葉に俺を除く一同はうなづきあった。
 いや、もう俺知らないから。勇者とかいっても、特に何もできるわけないしさ。大体それどころじゃないんだよ。俺には現実があるんだから。パーティーだの、戦うだの関係ないっての。
 あまりの非現実的な光景にうんざりして、俺は壁に寄りかかった。
 これは俺が深層心理で願っているものなのだろうか。現実から逃げたいという願望が理解できない現象を引き起こして……いやいや、もしかすると夢なのかもしれない。ただの夢でなかなか目がさめないだけであって、すべては目覚めたら解決しているのかもしれない。
 そう夢想の世界に逃避しているときだった。
「え? 植木さん、知りませんよ。ここにいるのは勇者さんですから」
 オヤジ妖精の声が俺を現実に引き戻す。
「内定ですって? 困りますよ。もうウチで勇者やるって決めてますし、本人もやる気あるみたいですから。もう迷惑なんで電話とか掛けないでください」
 何?
 今、このオヤジはなにを口走った。
 さらに電話口で失礼なことを連呼しまくっている。どうやら俺はいつのまにか夢想へきのある奇行の持ち主で、現実と夢の世界の区別もつかない上に、まったく理解のできない行動へと突っ走った挙句に。
「私ですか、植木さんの家族です。親とか兄弟じゃありません。もっと深く心の中でつながっているんです」
 俺の人生終わった。
 オヤジ妖精によってあっというまにエンディングだ。どうするよ、もう終わりだよ。内定とれそうだったの、あの会社だけだったんだ。
 もうどうするよ。明日はどっちだ、っていうか明日なんかないじゃないか。部屋の中にいる変態達しかいないじゃないか。
「これで未練も消えましたね。では魔王を倒す旅に出ましょう」
 オヤジ妖精は姿を消す魔法を解き、俺たちの前に醜いコスプレを披露する。きっと山田とか高橋とか大家さんとか引くに決まっている。そして現実に戻るんだ。俺はそれから会社に電話して謝って謝って謝り倒して、どうにか内定が取り消されないようにするしかない。
 ……という未来予想図はいとも簡単に崩れ去った。
「これこそ妖精っすよ。ちっさい女の子とか邪道ですって。もっと妖精ってぶっ細工なモンじゃないですかっ」
「高橋さんもそうですか。僕も妖精は気持ち悪い派なんです。いやあ、植木さんのパーティーで良かった。こんなにフレンドリーな皆さんで安心しました」
 手を握り合うのは、いつのまにか意気投合した僧侶の山田と踊り子の高橋だ。もちろんそこに生じたのは紛れもなく男の友情というものなのだろう。それをちょっと斜めに構えた表情で見守るのは大家さんだ。たった一人の女性、しかし何かが間違っているような気がする。
「では、勇者さんの準備も整ったことですし、出発しますか」
「まずは地下鉄で回れる範囲からな。そこらのエリアボスを倒して、同じような勇者パーティをつぶして、あと魔王の情報を仕入れながら、東京を回る。もしかしたら日本全国を旅することになるかもしれないから、きちんと旅費は稼いでおくこと」
「じゃあ、お願いします植木さん。勇者の力、期待してますんで」
「自分、踊り子ですけど盗賊だったんでスピードとかには自信ありますよ」
 ああ、さようなら、俺の人生。そしてこんにちは、知らない世界。
 ぞろぞろと部屋を出て行く一行を見送りながら、俺は遠い気持ちになった。
 もう現実には戻れないのだろうか、いいやそんなことはない。電話さえ使えれば、どうにか活路は見出せるはずだ。
「携帯電話とか危険ですから、あと家の電話も勇者専用回線に変えましたんで」
 消えずに残っていたオヤジ妖精が最後通告を突きつける。
「じゃあ、よろしくお願いします。勇者さま」
 この悪夢の言葉から逃れるすべはないようだった。一体何が間違っていたのか、そもそもどうして勇者に選ばれたのか。
「これで勇者、ナカシマトモアキさんの旅立ちが決まりましたね」
 ……え? ナカシマさんって隣の部屋の……。
 その事実は俺を再起不能にするには十分だった。
 ただの間違いだったのだ。それだけだったというのに、俺は多くのものを失ってしまったような気がする。
 勘違いだと知ったとたんオヤジ妖精は姿を消した。
 そして俺は必死に外を走り回って公衆電話から会社に連絡を入れ、謝りに謝りを重ねた。現実に戻るんだ、ただその一心で動き回った数日間はもしかしたら俺の人生の中で一、二に入るほど一生懸命になった期間なのかもしれない。充実感はなかった、むしろ後がないという切羽詰った危機感に追いかけられていただけだ。
 ようやく落ち着いたあと、平穏な朝を迎える。
 隣の部屋から叫び声が上がるのを聞き、あの妖精が現れたのだと知った。
 そっと手を合わせて、平穏にことが終わるのを祈る。ピンポーンとチャイムが鳴り、パーティーの面々が顔を見せたが、隣の部屋に行くように告げると彼らはなぜか「じゃあ、帰りに」なんて不吉な言葉を残して去っていった。隣の部屋からは相変わらず叫び声が聞こえている。
 まあ、俺には関係ない。そうだ、もう現実に戻ったんだから、魔王とか妖精とか関係ないよ。
 そんな安心は数十分後に消滅する。結局俺の部屋にオヤジ妖精と隣の部屋の本物の勇者とパーティー一同は集まった。俺をほっぽいて話が進む中、どうやら俺の部屋は拠点にされたようだった。
 俺はまだ非現実から逃れられないようである。

おわり

ありがちなゲームネタを使ってみたかった。それだけ。